アッサラーム夜想曲

幕間 - 3 -

あなたは私の

 コーキと出会い、十五夜目。
 決戦を目前にして、サルビア軍の奇襲を受けた。
 陽が沈み、互いの布陣を睨み合いながら、拠点へと兵を引き上げた後のこと。三十に満たないサルビアの小隊が、アッサラーム軍に扮装して、末端の拠点に密かに乗り込んできた。
 軍議中のジュリアスに報告が届いた時点で、手練れの暗殺者達は、こちらの将兵を十七名手にかけていた。陽動と思いきや本隊は動かず。少数精鋭による、指揮官を狙った完全な奇襲であった。

「捕えたサルビア兵に口を割らせました。二十八人構成の小隊で、うち二十は討ち取り、三捕えて、残り五の行方を追っています」

 アッサラームの中将、ジャファール・リビヤーンの報告を受けて、ジュリアスは空を見上げた。シャイターンの神力を借りて、味方の拠点を上空から俯瞰ふかんするように遠視する。広範囲の遠視は身体に負担を伴うが、これ以上戦力を削られたら作戦に支障が出てしまう。疲労を無視して入念に確認した。

「ここはもう大丈夫でしょう。奇襲を受けたことを全隊把握している。持ち場を守り、歩哨ほしょうを続けているようです」

「南に逃げたという情報もありますが、追いますか?」

「いや……」

 明日も早くから戦闘が始まることを考えれば、深追いはせず兵に休息を与えたかった。普段ならそう判断するところだが、オアシスに残したコーキへの懸念がある。
 ここからオアシスまで、それなりに距離はある。足が無ければ夜明け前に辿り着くことは不可能だろう。しかし万が一、辿り着いてしまったら……
 ぞわりと悪寒が走り、背筋が凍りつきそうになった。
 神力を解放してオアシスを遠視すると、最悪なことにコーキの気配を読めなかった。トゥーリオの気配もない。まさか、砂漠へ出てしまったのか。

花嫁ロザインがオアシスにいない。私が出ます。飛竜隊を編成してください。ジャファール、アルスラン、ナディアは私と一緒に。拠点をアーヒムとヤシュムに預けます」

「すぐに」

 滑走場に向かうと、前線で戦う将達がジュリアスを迎えた。

「総大将が自ら動かれずとも、我等でいって参りましょう」

 壮年の戦士、アーヒムは気遣うように申し出たが、ジュリアスは時間を惜しむように首を振って応えた。飛竜に騎乗して号令を発する。

「アーヒム、ヤシュム、ここは任せました。昼には戻ります。総員私に続いて、上昇!」

 いうが早いか、手綱をさばいて飛翔する。編成も確認せずに、上昇するなり最大速で飛ばした。闇夜を星のように翔けながら、神力を操りコーキの気配を探す。
 オアシスに近づくにつれ、コーキの気配を強く感じた。
 幾度も触れてきた気配だ、間違えようもない。安堵の息を吐きながら、己の力に少々目を瞠った。これほど広範囲の遠視を成功させたのは、初めてのことだ。花嫁に出会ってから、間違いなく神力が高まっている。
 安堵したのも束の間、コーキの姿をはっきりと遠視で捉えると、恐怖で身体が凍りつきそうになった。
 恐怖?
 未知の感覚に戸惑いながら、見間違いであれと祈る。
 恐れた通り、コーキはサルビア兵に抱えられるようにして、トゥーリオに騎乗していた。

(八つ裂きにしてやるッ!)

 一瞬で、燃えるような殺意に支配された。騎乗している飛竜がおののいたように咆哮を上げる。
 白み始めた空を突き進み、ようやくコーキの姿を肉眼に捉えた。

(トゥーリオ! 止まれ!)

 神力で命じると、気高い黒獣は四肢に力を込めて立ち止まった。大柄なサルビア兵は騎乗を諦めると、コーキを抱えてオアシスに逃げこもうとした。誰の許可を得て、ジュリアスの花嫁に触れているのか。

「許さない」

 静止の声を無視して飛竜を翔る。矢を番えてサルビア兵を射程範囲に捉えると、憎悪を込めて射った。
 砂の上に転がした男を、味方の兵が取り押さえる。視線で、殺せ、と指示すると、深く頷いて引き下がった。
 溢れ出た神力を落ち着かせてコーキを振り返ると、力なく砂の上に座り込んでいた。

「コーキ、怪我はありませんか?」

「ジュリ……」

 茫然としているが、幸い外傷はないようだ。服に男の血がついており、その場で服をはぎ取りたい衝動に駆られた。どうにか抑え込み、ぐずるコーキをトゥーリオの背中に乗せてオアシスに連れ帰った。
 オアシスに着いても怒りは治まらず、コーキを少し怯えさせてしまったが、しばらくすると、顔に安堵を浮かべた。

「……*******。*******」

 潤んだ瞳で、こちらを気遣うように声をかける。透き通った瞳から、今にも涙が零れそうだ。無垢で、清らかな、いとけない姿を見て、途端に身体は燃えるように熱くなった。

(触れたい……)

 どうしても我慢できずに手を伸ばすと、コーキは触れることを許してくれた。柔らかな白い頬に触れても、唇に触れても、逃げずにじっとしている。様子を見ながら顔を寄せても、まだ逃げない――最後の距離を詰めて、唇を重ねた。
 吐息の何と甘いことか……
 天上の至福を味わった。
 何度も唇を合わせて、気持ちを伝えると、コーキもはっきりと応えてくれた。

「ジュリ、好きだよ」

 その時の衝撃といったらなかった。
 こんなにも嬉しいことがあるのか、と生まれて初めて感動を覚えた。
 勢いを止められず、少し強引に唇を奪うと、舌を絡めて思うがまま咥内を貪った。甘い滴を啜ると、身体は燃えるように熱くなり、指の先まで芳醇ほうじゅんな神力で満たされた。
 いとけないと思っていたが、熱を帯びた表情は艶っぽく、胸を焦がすほど身体をたかぶらせる。
 そうかと思えば、唇を奪った男の前で無邪気に泉に入り、躊躇いもなく肌を晒している。その場で身体を奪ってしまいたかったが、少し肌に触れると泣きそうな顔をされた。
 愛しい、いとけない存在。
 急かしてはいけない。コーキの中にある、ジュリアスへの気持ちを大切に育てたい……
 しかし、ここも安全ではない。トゥーリオを傍に置いているとはいえ、コーキの身に危険が及ばぬ保証はない。願わくば、コーキから手を取って欲しかったが、仕方がない。嫌がられたとしても、目の届く所に連れていこうと決意した。

「……はい、ジュリといきます」

 戸惑いながらも、彼は手を取ってくれた。
 こちらを見つめる黒い瞳には、確かな信頼が浮かんでいる。澄んだ眼差しを向けられて、ジュリアスの胸は感動に震えた。衝動的にコーキの足元に跪くと、白い手をとり指先に口づけた。

「ジュリ?」

「コーキ、貴方は私の運命そのもの。私の花嫁、心から愛しています」

 言葉の判らないコーキは不思議そうに首を傾げたが、すぐに膝をつくと、ジュリアスの手を取り甲に口づけた。

「コーキ……」

 戸惑って声をかけると、黒い瞳を輝かせて楽しそうに笑った。
 からかわれたと知って、自然と笑みが浮かぶ。かわいらしく笑う姿を見ていると、こちらまで楽しくなってくる。抱き寄せて、思うがまま唇を奪うと、くたりと四肢から力を抜いて、艶めいた瞳でジュリアスを仰いだ。
 隙だらけで、つけこみたくなる。一方で、安心してもたれかかってくれるから、期待に応えたいとも思う。
 矛盾に満ちた、くすぐったい感情も、初めて知るものであった。

 奇襲を仕掛けたサルビアの残兵は、全て捕えた。
 血で穢れた砂漠に、天上人であるコーキを連れ帰ることを渋る者もいたが、ジュリアスは無視した。いっそ、穢れに触れて神気を失っても構わないとすら思っていた。
 彼は時折、青い星を見上げて悲しそうな顔をする。天上で仕えていた、シャイターンの元に帰りたいのかもしれない。
 寂しげな姿を痛ましく思いながら、遣る瀬無い念に駆られてしまう。コーキはジュリアスの花嫁だ。シャイターンの神意であるのなら、取り上げるな。
 初めて知ったのだ。
 情熱を、感動を、恐怖を、愛しいと思う気持ちを、自分以外の鼓動を、体温を……今更、手放せない。

(命果てるまで戦うと誓う。だから、どうかコーキを私にください)