アッサラーム夜想曲

幕間 - 1 -

始まりの回顧

 ごく稀に、額に宝石を持って生まれる赤子がいる。
 “宝石持ち”あるいは“神降ろし”とも呼ばれる赤子は、血の繋がりではなく、その大地を守護する神意により選ばれるという。
 中でも青い宝石は、明けの明星を象徴する青い雷炎の戦神、シャイターンの神力を呼び起こす結晶であり、恐るべき力を秘めていた。
 青い宝石を持つ赤子は、シャイターンの守護大地、バルヘブ西大陸でしか産まれない。
 西大陸で産まれた“宝石持ち”は、砂漠を総べる中心都市、聖都アッサラームの奥深く、皇帝陛下の御座おわすアルサーガ宮殿の大神殿に預けられる。
 そして生誕祝福、信仰の対象とされる神名、シャイターンの名を授かり、成人を迎える十三の歳まで人神として大切に育てられるのだ。
 後にアッサラームを軸とする、西連合軍三十万の兵を率いる砂漠の覇者、ジュリアス・ムーン・シャイターンは、額に青い宝石を持って生まれた。

 物心つく頃には、自分の中に眠る強大な力の存在に気づいていた。
 空虚な心の中、宿敵、不老不死を象徴する冥府の神、ハヌゥアビスへの闘心だけが鮮明で、遥か遠く東の大地から脅威が襲ってくることを、人に習わずとも知っていた。
 この強大な力で討つ為に、この世に生を受けたのだろう――そう幼心に理解していた。
 海も空も陸も、全てが神々の領域。
 地上は天上を戦で汚さぬよう、神々の作られた基盤。
 守護大地は神々の勢力図。
 海に隔てられた西と東の広大な大地は、それぞれ雷炎の戦神シャイターンと冥府の神ハヌゥアビスに守護されている。
 ジュリアスは神に選ばれた特別な“駒”。
 東の強敵を薙ぎ払う為だけに力を与えられ、私利私欲で大地を汚さぬよう、心を深く、重く縛られている。
 自我の欠如。
 無感動。
 他者の影響を受けず、心は神意を映す只の鏡。
 絶望も希望もなく、周囲の音を聴き流し、きたる闘いに備えて研鑽を積む日々。
 十三の年に初めて戦場に立ち、初陣を飾った。
 その夜、遠い砂漠の彼方に、生まれて初めて心を揺さぶる、けれどとても小さな気配を感じ取った。焦燥に駆られて無我夢中で馬を走らせたが、正体は掴めなかった。

 それが、欠けた心を補うもの、魂の半身――花嫁ロザインを求める、長い道のりの始まりであった。

 治まり切らない神力に苦しむ夜は、よく神眼で様々なものを見た。
 瞳を閉じていても、時折、青い宝石を通して神の視界を垣間見ることがある。神の目は様々な景色を映す。空に浮かぶ青い星、神々の御座す天上の世界を覗いたこともある。
 身体が神力に馴染むにつれて、神眼を自在に操れるようになっていった。
 そして、爆ぜる炎に、波打つ砂漠の向こうに、濡れた蜃気楼の向こうに、星空の彼方に……人の目には映らぬ、感じることのない優しい燐光を、甘い香りを捕えた。
 ほんの一瞬の時もあれば、残り香のように暫く漂うこともある。
 僅かでも気配を感じると、天にも昇る心地がした。
 同時に味わう、心の底から欲する渇望。甘美な気配が消えてしまうと、身を裂かれるような喪失感、深い悲しみに襲われた。
 砂の上に僅かに気配を感じれば、その場にうずくまり、残り香が消えるまで幾日も動けなかった。
 遠ざかる気配を追いかけて、一晩中砂漠を駆けたこともある。
 何が何でも手に入れたい。
 傍に置きたい。
 触れて、感じて、余すところなく味わい、包み、包まれたい。
 生まれて初めて知る魂の欲求は、身を焦がす程に強烈だった。寝ても醒めても、ここには居ない半身を想い、手に入れることがジュリアスの全てになった。

 期号アム・ダムール四四九年。
 ジュリアスが十五の歳、聖都アッサラームは侵略の危機に晒された。
 防衛壁を幾つも突破され、前線を指揮する大将は討ち取られた。
 東の脅威は遂にバルヘブ西大陸の先端、中央大陸との境目まで迫り、スクワド砂漠は血で血を洗う激戦区に変貌した。
 いけば帰って戻れないと揶揄された死地に、アースレイヤ皇太子は五万の兵と共にジュリアスを将として送った。
 元より恐怖心などない。
 前線にいけば、いつ現れるかも判らぬ半身に出会えるかもしれない。願ったりだった。
 アッサラームを侵略から救う為ではない。欠けた半身、花嫁を探す為だけに遠征を受け入れた。
 ところが前線は思った以上に壊滅しており、立て直しは困難を極めた。
 花嫁を探す暇もなく、戦場に立つ日々が流れる。援軍も兵糧も足らず、アースレイヤは果たして王都を防衛する気があるのかどうか、欠けた心ですら疑問に思うことも多々あった。
 時間が経つ程に、両軍の疲弊は進んだ。
 これだけの規模にも関わらず、何故かハヌゥアビスの宝石を持つ将は一人もおらず、サルビアの兵が束になってかかってきたところで、ジュリアスにとって脅威ではなかった。とはいえ、五万の兵に対して向こうは十万を超える大軍勢で押し寄せてくる。前に進むには、耐えるには、斬るしかない。
 どれだけ斬ったかも判らない。
 血で血を洗う修羅の中、ふと見上げた空の彼方を優美な鷹が滑空していた。

 ――あぁ、私の花嫁だ……!

 姿は違えど、見た瞬間に判った。彼の鳥は、名を囁いた。

 “ジュリ……”

 ――あぁ! 呼ばれている! 待って、いかないで!!

 魂が歓喜に震える。そして喪失の恐怖に震える。
 身体の中から熱がこみあげて、青い炎に包まれた。一直線に拠点兵を狩りながら、無我夢中で鷹の後を追いかけると、やがて小さなオアシスが見えた。
 優美な鷹は、オアシスの傍ですぅと姿を消した。
 それから幾夜もオアシスに通い、一月が経つ頃。
 千の夜を越えて、とうとう砂漠の彼方で花嫁を見つけた。
 無窮の宇宙アルディーヴァランに浮かぶ、美しい青い星。神の住む星から遣わされた、青い星の御使い。一目見た瞬間に心を奪われた。
 静謐な夜を思わせる黒い瞳を潤ませて、ジュリアスの胸の中で声を上げて鳴いた。
 震える身体は柔く、脆く、小さい。加減を誤れば傷つけてしまいそうだった。その者の名は……、

「ヒヤマ、コーキ」

 万感の思いを込めて口に乗せた。何と甘美な響きなのだろう。
 コーキ、それが私の花嫁の名前。

(ようやく、手に入れた――)

 決して離すものか。例え、アッサラームが滅んだとしても、コーキを手放すことだけはできない。
 歓喜に震えながら、同時に喪失の懸念を心の片隅に思う。初めて知る、失うことへの恐怖。
 心を手にした“宝石持ち”はどうなるのだろう。
 更なる力を得る代わりに、心は弱くなるのか。それとも強くなるのか……

 新たな試練なのか。或いは、心なき依代よりしろを憐れに想う、シャイターンの慈悲なのだろうか。