アッサラーム夜想曲

花嫁を守る者 - 2 -

 朝の給仕を終えた後、花嫁ロザインと一緒に中庭へ出た。
 花嫁は花や緑を眺めることを好む。特にジャスミンやクロッカス、薔薇が好きで、見かけると傍へよって愛でる。

「ジュリは今、どこらへんかなぁ……」

 もの憂げにため息をつく花嫁を、あちこちの影から暇な兵士達が眺めている。お前ら、本当にさっさと前線に戻れと心の底から思う。
 あまりに視線が鬱陶しい時は、殺気を滲ませて「見るな」と威圧する。これで大抵は静かになる。
 しかし、ローゼンアージュでも追い払えない人間はいる。

「お早うございます、殿下」

「お早うございます」

 例えば、このルーンナイト皇子だ。花嫁を見かけると、必ず声をかけてくる。

「ご機嫌いかがですか?」

「ありがとうございます。ジャスミンを見かけて、アッサラームを思い出していました……」

 微笑む花嫁を見て、ルーンナイトは言い辛そうに切り出した。

「実は……先ほど中央陸路の斥候せっこうから、ムーン・シャイターンが山岳戦闘民族と衝突したと報告が届きました」

 花嫁は息を呑んで、胸のあたりをぎゅっと掴んだ。

「ジュリ達は、無事なんですか?」

「ムーン・シャイターンは無事ですが、不慣れな足場と奇襲で、進軍に苦戦しているそうです。湿地帯では二千から三千の昇魂があったとも……」

「そんなに……!」

 ふらつく花嫁の肩を、ルーンナイトが支えている。

「――お気を確かに。アッサラームの獅子がやられたまま、引き下がるはずがない。中央には勇猛な歴戦の将、ヤシュム将軍やアーヒム将軍もいます。必ず同胞のかたきを取ってくださる」

「はい……」

 ルーンナイトは励まそうとしているが、花嫁の表情は増々かげった。もはや蒼白と言ってもいい。この優しい人は、誰かが闘い、傷つき、死ぬことが敵味方関係なく恐ろしいのだ。

「花嫁、そう不安な顔をされるな」

 ルーンナイトは困ったように花嫁を見て、それから訴えるようにローゼンアージュを見つめた。お前も慰めろ、とでも言いたいのだろうか……。
 喋るのは苦手だが、俯く花嫁を見て決意する。お仕えする主の不安を晴らすことも護衛の役目だ。

「山岳の戦闘民族は身軽で剣技に長けていますが、我等砂漠に生きる戦闘民族には及びません。アッサラームの獅子であれば、一撃必殺の剣技を教えられています。迎え撃ち、相対しての勝負であれば、一人十殺――いえ、百殺で瞬く間に決着はつくでしょう。心配はご無用です」

 勝利の蓋然性がいぜんせいについて明晰に語ったつもりであったが、二人は微妙な顔をした。しかし、ややもすれば花嫁は淡く微笑む。

「僕が不安に感じちゃ、駄目だよね。本当に辛いのは、今も進軍しているジュリ達なんだから」

「殿下……」

 花嫁を見下ろすルーンナイトの表情に、安堵が滲む。

「アージュ、礼拝堂に行こうか」

 花嫁の後ろに従うローゼンアージュの背中を、ルーンナイトに軽く叩かれた。なぜ叩かれたのだろう……とりあえずやり返した。

「――っ」

 ルーンナイトは跪いて呻いているが、無視して花嫁の隣に並ぶ。

「どうかした?」

「何でもありません」

 アッサラームの建造物であれば、大抵は屋内に礼拝堂が設けられている。大きな城塞ともなれば、それこそ数百人規模を収容できる礼拝堂もある。
 この巨大な城塞建築の国門にも、大小三つの礼拝堂が用意されていた。
 花嫁は、そのうちのごく小さな礼拝堂を好んで、時間を見つけては日参している。
 シャイターンの花嫁が祭壇の前に跪き拝礼する姿は、ローゼンアージュの目にも、厳かでとても神聖に映った。
 この静かな時間を邪魔をしないように、ローゼンアージュは部屋の隅で控えるようにしている。
 今日はいつになく、祈りを捧げる時間が長い……。
 ようやく立ち上がった花嫁は、誰に呟くともなく、ぽつりと零した。

「どうしてシャイターンは、教えてくれないのかな……」

「……?」

「ここへ来てから、先視が通り辛いんだ。何もかも、ぼやけてばかり。シャイターンにも判らないことがあるのかな……」

 予見の力のことかと、合点がいった。青い星の御使いならではの疑問なのだろう。
 しかし、ローゼンアージュにはよく判らない感覚だった。

「僕には、この目で見て、感じることが全てです。予見の力はありませんが、不安など一遍も感じておりません」

 花嫁の黒い瞳は、ローゼンアージュの顔に答えを探すように見つめている。

「殿下も……」

  何と言えばいいのだろう。かける言葉を迷っていると、花嫁は綻ぶように微笑んだ。

「うん、僕も……ジュリを、皆を信じているよ。皆でアッサラームに帰るんだってね」

 時々、花嫁はローゼンアージュの口下手を察したように、言わんとする先を紡いでくれる。
 誰かと心を通わす経験なんて皆無だったし、したいとも思わなかったけれど、この小柄な主だけは別だ。

 ――いつでも、お心が晴れやかでありますように。

 花嫁が礼拝する時は、ローゼンアージュも珍しくシャイターンに祈りを捧げいている。
 ムーン・シャイターンがお傍にいない今、自分が何ものからも守るのだ。
 神は、花嫁を守るをよみしたもう。