アッサラーム夜想曲

栄光の紋章 - 9 -

 抗争の終結は、ジャムシード自身による証言により幕を閉じた。
 密室で長時間に及ぶ軍事裁判にかけられた末、彼は流謫るたくの刑を申し渡された。
 罪の重さを考えれば、死罪もありえたが、領民から支持の厚いジャムシードに恩赦が認められたのだ。
 ヘガセイアに真相の証明をする手立てがあったことは本当で、革命軍にはリャンの無実を晴らす者が幾人もいた。彼等は計画された礼拝堂の惨劇を知り、二家にどうにか知らせようとしていたところを、ジャムシード・グランディエにより囚われたのだ。
 かくして、ゴダール家への嫌疑は晴れた。
 二家は武力抗争の休戦に同意し、ジャムシードの後継は傍流の家系から、年若いジークムントが選ばれた。
 厳格な宗教家であるジャムシードの犯行が露呈し、善良な領民を不安にさせたが、アッサラームを代表してジュリアスが見守るなか、領民の前で三家が停戦に応じると、歓びの喝采が起きた。
 聖霊降臨の祭儀を務める神官も急ぎ再選抜が行われ、ザインは威信にかけて、予定通りに聖霊降臨日を迎えようとしている。
 争いが去る一方で、憐れな男が独り、静かにザインを去った。
 砂の海原うなばらに消えゆくジャムシードの顔には、しかし穏やかな笑みがたゆたっていた。
 その笑みに理解が及ばず、気味悪げに訝しむ者もいたが、ジュリアスには心当たりがあった。軍事裁判の場で、憐れな男は最後の最後に心を明かしたのだ。
「私は、グランディエ家の重い家名が、心底疎ましかったのです」
「名声を得ていても?」
 問いかけると、男は自分を冷たく嗤うように、そうです、と続けた。
「富貴にあれど、心は貧しい身でした。くる日もくる日も、病床の両親、放蕩の兄、知恵の足りぬ弟の世話をして、理性に疲れて、憑かれていったのです。真に病んでいたのは、この私でした」
 彼は長いこと、家族の問題に苦慮していた。負担を一身に背負い、およそ安らぎというものはなかったという。
 受け継いだ栄光も見上げるほどの富も、心を慰めやしない。家族というものに嫌悪を抱き、自らも家族を作ろうとは思わなかったという。
「領主になり、今度は二家の面倒まで見なければならない。家とは、なんとおぞましいのでしょうか。毎日、救いを求めておりました。家の礼拝堂は、夕刻になると、天窓から一筋の光が降りてくるのです。御光みひかりに照らされ、煌めく塵を眺めながら……ある日、ついに考えました」
 ――二家を滅ぼそう。ドラクヴァ公爵を暗殺し、罪をゴダール家に押しつけるだけでいい。野心の強いドラクヴァは報復に乗りだすであろう……
「二家がいなくなった後、領主を続けるつもりだったのですか?」
 その疑問に、ジャムシードは静かに首を振った。
「病める私が選ばれるのなら、それも天意と受け取り、もうあと五年。選ばれなければ、凋落ちょうらくしようと決めておりました」
 力ない呟きには、苦悶極まった響きがあった。自らの裁きを神に託した男は、顔に陰惨な影を落として、ぽつぽつと語った。
「なぜ、私の家族は壊滅していたのでしょうか? 創造神の意図であるのなら、グランディエ家をお見放しになるおつもりであったのか。そうでないのなら、この私といい、空虚な家といい、誰のとがでしょうか?」
 心を打ち砕かれ絶望し尽くした男は、透明な涙を流した。
「哀しいのですか?」
 ジュリアスが静かに訊ねると、
「いいえ! 嬉しいのです。流謫るたくの身となれることが、心の底から嬉しいのです。ようやく、家から解放される……私は真に、孤独になりたかったのです」
 その慟哭は、周囲の想像をはるかに裏切るものであった。その者にとって何が幸福であるか、他人には真に推し量れはしないのだ。
 苦悩から解き放たれた彼の笑みは、偽りなく澄明ちょうめいなものであった。
 砂に向かって、黙々とさすらう男の背を、役人と幾人かの家人が侘しく見守っていた。
 同じ日に――
 ジャムシードが三家の調和を崩したことを、リャンは権力の解体のきっかけと話した。
「血の混濁は、ようやく終わったのです。長い悪夢でした。三家の支配を少しずつ緩めていけるよう、これからも努めます」
 十年に渡る栄光を守った男は砂漠に消え、囚人から解放された青年は、晴れやかに展望を語った。

 一年の除夜である。
 ザインを揺るがした抗争の事後処理にも目途が立ち、ジュリアスは今夜ばかりは朝課の鐘が鳴る前に、光希の元へ戻った。
「お帰りなさい」
「ただいま、光希」
 窓辺で読書をしている光希の背中から抱きしめ、顔を覗きこもうとしても、ふいと視線を反らされてしまう。頬にくちびるを寄せようとすれば、今度は手で阻まれた。
「……静かにしていたい」
 小声であったが、その言葉はジュリアスの胸に突き刺さった。あの夜から、光希の心はまだ遠く離れている。今夜は、聖なる浄闇じょうあんだというのに……
「外の様子を見にいきませんか? 今夜は領民も朝まで起きているでしょう」
 外出を許可するつもりのなかったジュリアスにしては、精一杯の譲歩であったが、光希は力なく首を振った。
「色々と露店も並んでいますよ。欲しいものは?」
 望まぬと知っていても、訊ねずにはいられなかった。光希の機嫌をどうにかして取りたい。けれども、腕のなかで彼は力なく首を横に振るだけだった。
「光希……」
「……」
「どうしたら、許してもらえますか?」
「謝らないと、いったのに?」
 顔を背けたまま、光希は呟いた。
「……撤回します。強引な真似をしてすみませんでした。あの夜の愚かな私を、どうか許してください」
「……」
「お願いします。除夜だというのに、目もあわせてもらえないなんて……」
 光希は、おずおずとジュリアスを見つめた。
「誰の目にも留まらず、声もかけられず、ひっそりうちに籠りたい時ってない?」
「……例外はあります。判りました、静かにしています」
 せめて、傍にいることは許して欲しい。
 会話もせず、ただじっと抱きしめていると、腕のなかで光希は次第に力を抜いた。背を預けて、温もりを分けてくれる。
「……オアシスを思いだした」
「え?」
 夜空に向けていた視線を光希に戻すと、美しい夜のような瞳はジュリアスを見ていた。
「言葉は全然判らなかったけど、会話がなくても、いつでも僕の気持ちを汲んで、抱きしめてくれたよね」
「懐かしいですね……当時は言葉が通じない分、光希の表情や仕草をよく見るようにしていました。抱擁は……そうすることで、私も満たされていましたから……」
 想いをこめて、ぎゅっと抱きしめる。
「あーぁ……怒りって、持続しないなぁ」
 どこか諦めたように、光希はゆっくりと息を吐いた。
 許されたことを知り、ジュリアスもまた内心で密かに安堵のため息をついた。
「ジュリってずるいよ」
 恋人は、ふて腐れたように呟いた。
 返事に詰まったのは、全く同じことを光希に対して思うからだ。強大なシャイターンの力を操れても、光希につれない態度を取られると、怯懦きょうだにさせられてしまう。
 返事の代わりに、黒髪を撫で、こめかみにくちづけを落とした。