アッサラーム夜想曲

神の系譜 - 8 -

 待っている間、光希は気が気ではなかった。彼の身に何かあったらどうしよう――不吉な想像ばかりしていたが、雨があがり、曇った空の奥から西日が射す頃、ジュリアスは無事に戻ってきた。
 ジュリアスは天幕で待つ光希を見て、一瞬顔に安堵を浮かべるも、すぐに表情を引き締めた。縋りつく光希の肘を支えながら、目を見つめて事情を説明した。
「ドラクヴァ家が、ゴダール家の刺客に襲われたそうです」
「刺客!?」
 驚嘆の声をあげる光希を見て、ジュリアスは厳しい表情で頷いた。
「聖なる礼拝堂を、血で穢したのです」
「礼拝堂……」
 唇が戦慄わなないた。  あの恐ろしい幻が、現実に起こってしまった――
 震える光希を落ち着かせようと、ジュリアスはきつく抱きしめた。悪夢から逃げるように、光希も襟を掴んで縋りついた。
「誰か、死んだの?」
「十数名の死傷者がでました。当主を二度も襲われたドラクヴァ家は激怒し、ゴダール家に全面抗争の宣告をしたそうです」
「そんな!」
 光希は悲痛な声をあげた。腕のなかでジュリアスを仰ぐと、思慮深い眼差しには、厳しい色が浮かんでいた。
「事態は深刻です。もう、花嫁ロザインの存在をもってしても、平和的な解決は難しいでしょう」
「刺客って、ゴダール家が?」
「残された短剣には、ゴダール家の紋章が入っていたそうです」
「ゴダール家は、なんて?」
「否定していますが、リャンの解放を求めて、彼等も武力抗争に踏み切ると宣戦布告しました」
「いつ!?」
「明日の昼までにリャンを解放しなければ、アブダム監獄を襲撃すると」
「あ、明日? まだゴダール家の仕業と、決まったわけではないんでしょう?」
 行動を起こすにしても、ザインへ入った後のことだと思っていた。到着早々の展開についていけず、光希は青褪めながら口元を押さえた。
「今のところは。ですが、もう真相など重要ではないのでしょう。リャンが解放されたところで、衝突は避けられないかもしれません」
「それじゃ、ザインの街中で……?」
 ありえます、とジュリアスは頸を縦に振った。
「私もできれば避けたい。今からザインの当主、ジャムシード・グランディエに会いにいきます」
「僕もいく」
 切羽詰まったようにジュリアスの両腕を掴むと、青い瞳が断固の意思を灯して輝いた。
「光希はここにいてください」
「どうして? 僕も連れていってよ」
「治安が悪過ぎます。今夜は、隊商宿キャラバン・サライに泊ることも控えた方がいいでしょう。念の為、光希の影武者を連れていきます」
「ジュリは? まさか一人でいくの?」
「ナディアもいきますよ。そんな顔をしないで。私にも護衛はいますから」
「でも……」
 不安げな表情を見て、ジュリアスは勇気づけるように光希の両腕をぎゅっと掴んだ。
「すぐに戻ります」
「……戦うの?」
「いざとなれば」
 迷いのない返答に、不安を掻きたてられた。あれだけの大都に軍が押し入れば、民間にも被害は及ぶだろう。
「街の人たちは、避難しているの?」
「一部の地区では……光希、心配しなくても、こちらから戦いを仕掛けたりしませんよ」
 そうはいっても、いざ武器を持った者同士が戦えば、無傷とはいかないだろう。
「……不安だ」
「できる限りのことはしますが、危険は冒しません。そもそも我々は、聖霊降臨儀式に招かれただけなのですから」
「うん……」
「光希」
 両の頬を挟まれ、上向かされた。青い瞳には、不安そうな己の顔が映っている。頬を撫でるジュリアスの手に、光希が自分の手を重ねた。
「無茶は、絶対にしないで」
「約束します」
 抱擁をほどくと、ジュリアスは外套を羽織り直した。覆面で額の宝石も金髪も隠し、目だけを覗かせる。
 天幕の外へでると、トゥーリオの手綱を引いてナディアがやってきた。いよいよいってしまうと思うと、知らず手はジュリアスの袖を掴んでいた。
「……闘いが始まる時、酷く雨が降るかもしれない。どうか、気をつけて」
「はい。光希も……」
 意志の力で離した手を、ジュリアスに取られた。彼は指で覆面をさげると、光希の目を見つめたまま、丁寧に優しく、指先に口づけた。
 心臓を鷲掴みにされた。叶うことなら、引き留めたい……いつまで経っても、見送ることに慣れない。
 想いが溢れて、胸が張り裂けてしまいそうだ。
 唇を引き結ぶ光希をじっと見つめたあと、ジュリアスは今度こそ背中を向けた。光希に扮した兵をトゥーリオの背に乗せて、自分もその後ろに跨る。最後に光希の姿を青い瞳に映すと、霧けむる砂漠を駆けだした。