アッサラーム夜想曲

天高く - 1 -

 六歳の夜明け、施設をでると同時に聖歌隊に入った。
 巨大な大神殿に聳える無数の石柱は、まるで栗林りつりんする石の森。圧倒されて、足が竦んだ。
 お目にかかったことのない美しい衣装――聖歌隊の白い聖衣に着替えさせられ、この先どうなるのかしら……不安で胸が潰れてしまいそうだった。
 厳しい戒律で知られる宿舎に足を踏み入れ、恐ろしいほどの静けさにおののくカーリーを、三つ年上のエステルは優しい笑みで迎えてくれた。
 大好きなエステル。
 優しくて賢くて、延々続く礼拝の作法も完璧。聖典もすらすら読みあげ、何遍も諳んじてみせる。
 そして、誰よりも上手に歌う。
 高窓から斜めに降り注ぐ朝の陽光を浴びて、天高く、のびやかに賛美歌を歌うのだ。
 彼はいつでもカーリーの前を歩いた。憧れだった。それなのに――
「僕の後任はきっと、カーリーなんだろうね」
 高音域の個人指導を受けるようになった頃、エステルはカーリーを敵視し始めた。
 唖然とするカーリーを苦々しげに見下ろして、背を向けて駆けていってしまう。
「待ってよ、エステル!」
 追いつこうと走っても、振り向いてくれない。いつもなら、優しい笑顔で振り向いてくれるのに。
 玻璃のような声だと、確かに周囲は褒めてくれる。
 けれどもエステルより上手に歌えたことなんて、一度もない。何度も音階を踏み外すし、譜面も彼のようには読めない。発音だって歌う度に指導される。
 至らない所ばかりだ。才能があるとは思えない。彼の後任なんて務められない。逃げだしてしまいたい……
 こんなに自信のないカーリーの、一体、何がそんなに脅威だというの。
「カーリーには、判らないよ!」
「待って、エステルッ!」
 声をかけても手を伸ばしても、届かない。エステルはいってしまう。
 当時のカーリーにとってエステルは、兄であり、家族であり、友人であり、天上の歌声であり、孤独を癒やしてくれるいっさいの光明だった。
 そのような絶対的存在に見放されて、混沌たる感情と痛切な胸の痛みに、カーリーは喘ぐことしかできなかった。
 二人の間に横たわる海溝は、煩悶はんもんの種となり不眠の種となり、カーリーを日毎夜毎ひごとよごと苦しめた。
 暗澹あんたんと独りで泣いてばかりいた。慰めてくれる優しい手は、遠のいてしまったから……
「……どうしたの?」
 優しく声をかけてくれたのは、天上人の花嫁ロザインそのひとであった。
 どれほど嬉しかったことか。その一言に、どれほど救われたことか。殆ど打ち明けてしまいそうになった。エステルとのこと、不安で辛くて寂しい気持ちを、心のうちを誰かに全部聞いてほしかったのだ。
 そうしなかったのは、彼の親切に甘えてしまえば、増々エステルに嫌われる……そう思ったからだ。
 友情はもう、戻らないのだろうか……心底どうにかしたいと思いながら、その方法が判らなかった。
 あの頃は、追い駆けるばかりのカーリーが、彼に負担をかけていたのだと気づけなかったのだ。
 重苦しい憂鬱はしばらく続いたが、暮れの合同模擬演習を過ぎた頃から、エステルの態度は軟化し始めた。
 聖歌隊を卒業した後、エステルは軍に入隊したと人から聞いた。おめでとう、と伝えたくて、声をかける機会を窺っていると、彼の方から声をかけてくれた。
 目があうのは久しぶりで、お互いに緊張していた。先に口を開いたのは、エステルの方だ。
「ごめんね。大好きだよ!」
 泣きそうな顔で謝ってくれた。昔のように肩を引き寄せ、抱きしめてくれた。
 あの瞬間の感動、迸るような歓喜を今も覚えている。
 胸が張り裂けそうなほど嬉しくて、カーリーは大泣きした。エステルも泣いていた。
 迂曲し、亀裂した友情は、時間の流れと共に修復された。

 四年の月日が流れた。
 カーリーは十五歳、エステルは十八歳になった。友情に変わりはない。
 同年代に比べて背も低く、声質はまだ高音域を保っているが、カーリーもとうに聖歌隊を卒業している。
 親友を追い駆けて、アッサラーム軍に入隊した。
 かつては高音域をどこまでも駆けあがっていたけれど、今では鍛錬場を駆け周り、同じ唇から剣戟けんげきを繰りだすかけ声をあげている。
 暮れの合同模擬演習が近づいている闘技場で、しばし休憩の号令がかかった。
「あ、殿下だ……」
 水場で休んでいたカーリーは、菫色きんしょく装飾の回廊を進む、天上人の姿に気がついた。
「お疲れ」
 ぼうっと眺めていると、声をかけられた。同じく休憩中のエステルだ。カーリーの視線を辿り、回廊を進む花嫁を見あげている。
「……ザインに御幸みゆきされるのだね」
 横顔に声をかけると、彼はようやく視線をカーリーに戻した。
「殿下の武装親衛隊の配属が決まったよ」
「決まったんだ! いいなぁ……」
 誇らしげに笑う幼馴染を、カーリーはふて腐れた気持ちで仰ぎ見た。
「カーリーは志願したの?」
「したかったけど、推薦してもらえなかった」
「そうか」
 そういうエステルは、志願者の殺到した花嫁の武装親衛隊の枠を見事に射止めたのだ。
 かつて、高音域の天才と呼ばれた少年は、声変りも既に果たしている。落ち着いた男の声へと変貌した親友が羨ましかった。
「あーあ……ザインまでどれくらいだろう?」
「戻るのに、四十日はかかるはずだよ」
「そんなに?」
「どんなに遅くても、アメクファンタム皇子の成人式までには、お戻りになるさ」
 親友の言葉に、カーリーも頷いた。
 皇太子誕生、ならびに皇位継承される神聖な日には、聖都の英雄とその花嫁も並んで姿を見せるだろう。
「こんにちは」
「「殿下!」」
 噂をすれば云々、振り向いた先に高貴なひとがいた。
 世にも稀なる天上人は、出会った日から今でもずっと、気さくに声をかけてくれる。同僚に妬まれることがあるくらいだ。
 嬉しそうに言葉を交わすエステルを眺めていると、花嫁は分け隔てない笑みをカーリーにも向けた。
「カーリー、調子はどう?」
「はいっ! 元気です。あの、どうかお気をつけて」
「ありがとう。カーリーも怪我しないように。よく気をつけてね」
 相変わらず、優しい言葉をかけてくれる。
 殆ど変らぬ目線の人は、手を伸ばしてカーリーの頭を撫でた。嬉しいが……十五の男子として、いかがなものだろう。
 神秘的な黒い瞳に、カーリーはまだ、中庭で泣いていた子供に映るのだろうか?
 どう反応しようか迷っているうちに、手は離れてしまう。惜しいと思うのは、カーリーがやっぱり子供だからなのだろうか?

 期号アム・ダムール四五六年、十三月十日。
 暮れの合同模擬演習を待たず、アッサラーム軍はザインへ向けて出発した。
 意気軒昂いきけんこうと、アッサラームを発つ親友を見送るカーリーの胸中は複雑だった。城壁から澄み透った碧空を仰ぎ見、心に思う。
 いつか――
 追い駆けるのではく、隣に並んで走りたい。
 助けられるばかりではなく、彼が転びそうになった時は、カーリーが手を差し伸べられるように。