アッサラーム夜想曲

帰還 - 7 -

 ― 『帰還・七』 ―




 論功行賞を終えて数日。
 ジュリアスはヤシュムと二人、アーヒムの私邸に招かれた。帰還して一段落したら、三人で飲み交わそうと約束していたのだ。

「無事に帰ってこれて何よりだな」

 アーヒムは笑みを深める。三人共サーベルはいているが、軍服も鎧も脱いだ身軽な格好で、緑豊かな庭園を見やりながら各々手酌で酒を汲んでいる。

「もう生温い湿地はこりごりだ」

 辟易したようにヤシュムが言うと、アーヒムは「西の結束を高め、砂漠を護る生き方をすべきだ」と同意を示した。

「しばらく遠征もないでしょう……」

 ジュリアスは確信していた。しかし、アーヒムは懸念を示すように継ぐ。

「だと良いが……大戦が片付けば内輪が揉めるもの。アッサラームは最凶の芽を摘んだが、他国はようとして知れぬ」

 アッサラームにおける最凶の芽――アースレイヤと宮殿勢力を二分していたヴァレンティーン・ヘルベルトは、既に血の制裁に処されている。
 この国も他国同様、しばしば権威の座を巡って血を流す。
 時に深刻な内部分裂をきたすものだが、東西戦争の前に決着をつけられたことは幸いであった。
 しかし、西連合軍に応じてくれた盟友国の中には、今まさに内乱を迎えようとしている国もある。

「後援を発するにしても、東西の衝突ほどに荒れはしないでしょう」

 ジュリアスが言うと、ヤシュムもこれに同意する。

「そうだとも。じきにアースレイヤ皇太子も即位される。遠征には難を示す方だ」

 するとアーヒムも顎に手をやり「確かに」と一つ頷き、

「思えば、内憂外患に疲弊せぬよう、公宮にまでは口を出さないのかもしれませんな……」

 思いがけず、皇太子への理解を示した。

「只の怠慢です」

 ジュリアスは一刀両断した。膨れ上がる公宮を御そうとしないのは、単に面倒くさいからであろう。
 無益な血を流さぬよう、とっとと縮小してしまえば良いものを。前々から思っていることである。

「総大将は、皇太子に厳しいな」

 ヤシュムに揶揄やゆされて逡巡した。彼にも褒める所がないわけではない。

「いずれにせよ、帝位は彼に転がります。彼ならば……と思ってはいますよ」

 あと四年。アメクファンタム第一皇子の成人に合わせて、アースレイヤ皇太子は即位する。
 かつてアデイルバッハ皇帝は、慣習に従い、即位と共に敵対する全ての兄弟を処刑した。
 そうでなくとも、暗殺の脅威が絶えぬ地位である。その息子、幼少のみぎりから機転の利いたアースレイヤは、幼い弟を庇い生き延びたが、上の兄弟達は一人残らず倒れ伏している。
 最大勢力は既に粛清し、血を分ける弟も兄皇子に服従を誓っている。彼の即位を邪魔する者は、もはやアッサラームに一人もいない。

「労せず帝位の座を手にしても、才覚が伴わなければ砂の牙城も同然。砂漠はそんなに甘い世界ではない……だが、彼は今の地位を己の才覚で得ている」

「お前にしては不敬だ」

 アーヒムの言を、ヤシュムはからかった。

「違う、認めているのだ。峻厳しゅんげんな自然に向き合い、西にあまねく民を纏め上げ、聖都を護り東の脅威に打ち克つには、賢明さ、そしてある程度の野心も必要だ」

「アースレイヤ皇太子は適任であると思いますか?」

 問いかけると、アーヒムは静かに頷いた。

「あの方は東西の衝突を避ける。私は評価しておりますよ」

「征服を諦めると?」

 ヤシュムは尋ねる。
 この問いは今、あらゆる場所で耳にする。意見は割れるが、サルビア軍に決勝したこともあり、東への侵攻気風は再び高まっていた。しかし。

「恐らくは、東西統一は決して成り立たないのであろう。成しうるのであれば、我々よりも先ず、時を超越する神々がとうに成しえているはずだ」

 アーヒムの言葉に、ジュリアスも同感であった。しかしヤシュムは「神々の真意など判らぬ」と首を振る。

「押しては引いて。どちらか優勢に見えても、時を刻むうちに、優劣は入れ替わる。そういうことだ。本気で攻めるだけ労力の無駄というもの」

 これにも、全く同感である。
 結局のところ、いつの時代も敵を中央から駆逐したところで、勢力範囲の端は、国門を越えぬ不動の線に定まる――それが答えの全てではなかろうか。

「陛下が東西を駆けておられた頃“東の侵略を食い止めるだけでは解決にならぬ”そうおっしゃていた……以前は私も同じ考えであったが」

 アーヒムは遠い眼差しで虚空を見やる。そして厳然と言った。

「互いに何度攻めたか知れぬ。それでも結局は決勝しきれない。戦いの歴史を紐解けば、それこそ数千年をくだるまい……それほどまで、拮抗することがありえると思うか?」

「……まぁ、普通に考えればないであろうな」

 問いかけにヤシュムは応じる。闘えば、どちらかが勝ち、どちらかが負けるものだ。

「ならば、この調和こそが神意と思わぬか」

「そうかもしれん……」

 今度はヤシュムも頷いた。
 彼等の会話を聞くうちに思う。東西の拮抗は果たして神意なのか、或いは本当に拮抗しているのか……。
 今回で言えば、命運を分けたのは花嫁ロザインの存在だ。光希なくしてハヌゥアビスに決勝は叶わなかった。
 西は軍勢で負けていたが、神力はジュリアスの方が上であった。では互角の勝負であったか……いいや、天がアッサラームの決勝をよみしてくれたのだ。
 ふと無意識に、肩を押えた。
 かつてない強敵――宿命の敵にありながら、ハヌゥアビスをある意味で誰よりも理解していた。
 渇望に苛まれながら、きたる決戦に備えて耐える日々。ジュリアスと同じ……彼はもう一人の自分だった。
 いや――
 考えても詮無いこと。時代を違えれば、負けていたのはアッサラームであったかもしれぬ。
 聖戦に誓ったのだ。光希の降りた砂漠を、何があっても守るのだと。

「総大将、瑰麗かいれいなお顔がかげっておられますなぁ」

 からかうようなヤシュムの声に我に返った。気付けば、アーヒムもこちらを見ている。

「やれやれ……軍議のようだ。遠征を終えたのだ、祝い酒にしよう」

「そうしよう」

「同感です」

 あらためて、三人で杯を掲げる。ジュリアスが「アッサラームに」と発すれば、他の二人も同じ言葉を口にした。
 場を仕切り直して酌み交わす酒は、美味であった。聖戦でくつわを並べた時には味わえなかった、和やかな空気に満ちている。

 畢竟ひっきょう――東西の闘いに決勝したのだ。