アッサラーム夜想曲

祈り - 2 -

― 『祈り・二』 ―




 嵐のように毎日は過ぎ去ってゆく。
 特にノーヴァ壊滅後は、続々と負傷兵が運ばれ、数えきれないほど青い星へ旅立っていった。
 黄昏の国門。
 窓から射しこむ黄金色の斜光は、紗を擦りぬけて、病室の半ばまで照らしていた。柔らかな光が、苦痛に呻く彼等のせめてもの慰めになれば良い。

「殿下、もうお休みになりませんか?」

 疲れ切った花嫁の顔を見て、ナフィーサは声をかけた。

「うん……少しだけ」

 そういって、少しで済まないことは判っている。ローゼンアージュも、ナフィーサに視線で「もっと止めろ」と無言の圧をかけてくる。悩むところだ。昨夜運ばれてきた、前線の負傷兵の容体が心配なのだろう……。
 結局、ナフィーサが迷っている間に、花嫁は次の病室へ向かってしまう。こういう時、もう一人の従者、ルスタムの存在を思い出す。彼ならどうしたか――

「意識が戻らないな……」

 花嫁は、昨夜運ばれてきた若い負傷兵の枕元に跪くと、額に浮いた汗をそっと拭いた。包帯の具合を確かめて、痛みを取り除こうとするように患部にそっと触れる。
 ここへ来て、もうどれだけ見送ったか判らない――
 花嫁は、同胞を一人きりで逝かせることを恐れてた。
 夜半は当直も減りがちで、夜には息のあった者も、陽が昇る頃には姿を消していることが多々ある。誰にも告げず、隊服やネームプレートだけ残して、青い星へ還ってしまうのだ。花嫁は、彼等の残していった痕跡を、歯を食いしばって回収する。周囲に悲しみが伝播でんぱしないように、泣くまいとする姿は、見ていて胸が痛かった。

「殿下、そろそろ休憩にしませんか?」

 少しだけ、と言いつつ大分過ぎた。幸いにして、心配していた負傷兵は容体を持ち直した。峠はもう越えただろう。
 今度は花嫁も「そうだね」と言って立ち上がる。
 終課の鐘はとうに鳴っているが、煉瓦造りの大広間には、まだ大分人が残っていた。それぞれ食事したり、剣に油を塗ったりして寛いでいる。
 とても静かな時間だ。
 天井から吊るされた鋼の円環照明が、疲れている彼等の横顔を、仄かに照らしている。顔に落ちる陰影は、どことなく物哀しい印象を与える。
 ナフィーサ達も黙々と食事していると、俄かに外の様子が騒がしくなった。
 顔を上げて様子を窺っていると、城壁で歩哨ほしょう任務に就いていた兵士が、室内に駆け込むなり叫んだ。

「――伝令! ムーン・シャイターンが、ハヌゥアビスを破りましたっ!!」

 その場にいた全員が振り向いた。次々に声が上がる。

「本当か!?」
「ついにか!!」
「やったな」
「ではアッサラーム軍が勝利したのか!」

 思わず呼吸すら止めて、ナフィーサも知らせを運んだきた歩哨兵を凝視した。

「詳しい状況はまだ伝わっておりませんが、各将は全員無事と聞いています。夕方には掃討戦に移り、サルビア軍は前線から陣を下げたそうです。本陣は……中央拠点を制圧いたしましたっ!!」

「「オォッ!!」」

 途端に割れるような喝采が起きた。中身の入ったゴブレットが宙を舞い、ついさっきまで静まり返っていた空間は、大衆酒場のように騒然となった。
 ナフィーサも思わず立ち上り、歓声を上げた。勢いのまま祝詞を叫ぶ。祝福を告げる大神殿のカリヨンが、高らかに鳴り響いた気がした。
 熱に浮かされたように隣に座る花嫁を振り向くと、花嫁は目を潤ませて、口元を手で押さえていた。周囲の歓声に応えるように、無言で何度も頷いている。その様子に気づいた兵士達は、花嫁の周囲に集まり、口々に「殿下」と話しかけた。

「殿下、もう大丈夫でございますよ」
「これで本陣も撤収の目途が立ちます!」
斥候せっこうの連絡を待ちましょう」
「我々の勝利が決まったも同然です」
「ムーン・シャイターンも、間もなくお戻りになるでしょう」

 花嫁は笑おうとして、失敗した。消え入るような声で「はい」と答え、俯く。慈雨のように、ぼろぼろと涙が零れた。
 その姿を見て、ナフィーサの胸にも切なさと歓喜がないまぜになってこみあげた。痛いほど気持ちが判る。この場にいる全員が判るはずだ。
 花嫁は少しだけ顔をあげると、隣に座るナフィーサを確認した。遠慮がちに頭を寄せてきたので、ナフィーサの方から手を伸ばして抱きしめた。

「良かったですね、殿下……っ」

「うん……っ、あぁ、良かった!! 良かったぁ……無事だって」

 花嫁は強い力でしがみついてきた。ナフィーサもしっかり抱きしめながら、涙を流した。この時を、どれほど待ち望んでいたことか。

 ――アッサラームをよみしたもう、シャイターンよ! お導きに感謝を……!

 知らせを聞いて、続々と兵士が集まってきた。仲間と騒々しく喜びを分かち合い、次いで花嫁の傍に駆け寄る。花嫁の対面に座るローゼンアージュは、そわそわし始めた。周囲を牽制すべきかどうか、迷っているのだろう。
 そのうちに、アルシャッドとアルスランも姿を見せた。

「この日を、どれほど待ち望んだことか」

 隻腕の将軍がしみじみと呟くと、丸眼鏡の奥から眼を細めて、アルシャッドも「長い戦いでしたね」と相槌を打つ。

「大丈夫ですよ、もう」

 アルスランは左腕を伸ばして、ナフィーサと花嫁の頭を交互に撫でた。

「お前はいつも通りだな……」

 黙々と食事を続けるローゼンアージュを見るや、彼は感心したように呟いた。
 花嫁はゆっくり顔をあげると、泣き腫らした真っ赤な顔で、照れくさそうに笑った。

「アージュも、喜んでますよ。ね?」

 花嫁がローゼンアージュに笑い掛けると、珍しく彼も笑みを浮かべて「はい」と短く応えた。
 見渡せば、皆、こちらを見つめて笑顔を浮かべている。花嫁は窓の外を見上げると、語りかけるように呟いた。

「ありがとうございます。僕達を守ってくれて……星に還った仲間にも、どうか伝えてください。もうすぐ、アッサラームに帰れるよって……」

 その囁きを聞いた者は、その場に跪いて手を胸の前で交差させた。波紋が広がるように、周囲の者も次々と膝を折っていく。
 喧噪は去り、再び静けさに包まれた。やがて全員が跪き、遥かなるアッサラームを、同胞を、逝きし人との行きし日々を想い、静かな黙祷を捧げた。
 薄く開いた窓から風が流れこみ、血や汗のよどんだ匂いを攫っていった。
 代わりに清涼なジャスミンの香りが辺りに漂う。懐かしいアッサラームに吹く風だ。

 瞳を閉じれば、蜃気楼に揺れる金色のアッサラームが目に浮かぶ。
 あの懐かしい聖都へ、帰れる日はきっと近い――