アッサラーム夜想曲

慟哭 - 3 -

 ― 『慟哭・三』 ―



 天も海も闇に染まっている。
 星明かりは、潮流の荒い海に複雑に映りこみ、うねる蛇のように銀班ぎんはんを為している。
 遠く岸壁に押し寄せる波音を聴きながら、サイードは窓辺から空を仰いでいた。
 今夜は、宛がわれた客室に下がらず、ジャファール達の寝ている部屋で交代で番に就いている。ヌイ達に敵意がないことは判っているが、負傷した味方を置いて部屋に下がることは不安だ。
 不意に掠れた声で名を呼ばれた。
 驚いて振り向けば、寝台からジャファールがしっかりした眼差しでサイードを見つめている。

「ジャファール将軍!」

 傍へ寄ると、ジャファールは強張った顔でサイードを見上げた。サイードは包帯の巻かれた肩に手を置くと、安心させるように微笑んだ。

「ムーン・シャイターンは、見事ハヌゥアビスに決勝しました。アルスラン将軍も無事です。通門拠点で指揮を執られていらっしゃる」

「――っ! 神よ……っ」

 ジャファールは手で目頭を押さえた。堪えきれない嗚咽と共に、感謝の言葉をいくつも囁く。その姿を見ていたら、サイードの目頭も熱くなった。

「ご無事で良かった……」

 目を覚ました他の仲間達も、顔に喜色を浮かべて傍へやってきた。オルベスも寝台の上で顔を倒して、涙を零しながらジャファールの名を呼んでいる。

「あぁ、良かった! ジャファール将軍っ!」

 俄かに騒がしくなると、呻いていたモンバールも意識を取り戻し、周囲を見渡して顔を輝かせた。ジャファールもオルベスも笑みを浮かべている。

「あなたの無事を聞けば、皆も喜びます」

 薄暗い部屋に希望が満ちる。サイードは明るい気持ちで言った。

「おかしいな……サイードが天の御使いに見える……」

 ジャファールが真顔で応えると、全員が笑いを零した。喜びを分かち合い、暫しシャイターンに感謝の言葉を捧げもした。
 興奮が少し引いたところで、サイードは戦況を話して聞かせた。
 ノーヴァ海岸にルーンナイトらが挙兵したことを知るや、ジャファールは噛みしめるように何度も頷いた。
 そして沈黙する。
 勝利までに要したあまりに大きい代償を想うと、歓喜は去り、重い空気が流れた。

「目を醒ますことが恐ろしかった。どれだけの、絶望が待っているのかと……夢現ゆめうつつを彷徨い、いっそ青い星に行けたらと、願ったりもした。けれど、その度に引き留める声が聞こえた」

 長い旅路を終えた賢者のように、深い静かな声で、ジャファールはぽつぽつと心境を語った。

「……最後は死を覚悟して、厳しい狭路へ挑んだのだ。あそこから生還できたのは、最後まで私についてきてくれた者達のおかげだ。少なくはなかった。だが、二人しか残らなかった――」

「皆、気持ちは同じでしたっ! 将軍は全身全霊をかけてノーヴァを導いてくださった。貴方はこの先も、アッサラームに必要なお方です……っ、貴方のことだけは、何があってもお守りしようと、全員で誓ったのです」

「そうです! 生きていてくださって、本当に良かった」

 悲壮な独白を遮るように、寝台の上でオルベスとモンバールは声を荒げた。

「ノーヴァ壊滅は、私の責任だ……」

 悔悟かいごに満ちた暗い呟き。

「違いますっ!!」

 全員が口々に否定したが、ジャファールは力なく首を振った。

「事実だ」

 厳しい表情を浮かべるジャファールを見て、全員がやるせない気持ちを噛みしめた。あまりにも重い現実を前に、かける言葉が見つからない。
 ノーヴァに関しては多くの意見があるが、結果として、早い段階で二十万もの大軍を撃破したからこそ、サルビア軍に決勝したのだとサイードは考えていた。
 兵力を分散したまま戦いを続けていれば、時と共にアッサラームの不利に傾いただろう。
 敵が狙いを絞ってくれたおかげで、ある意味守りやすくなり、攻撃の余裕が生まれたのだ。敵の集中砲火に限界まで耐え、最後までノーヴァに尽くしたジャファールに、全アッサラーム兵は心からの敬意を抱いているはずだ。

「ノーヴァの悲しみを、一人で背負うことはありません。皆同じ気持ちです」

 沈黙を穿うがつように、サイードは本心から告げたが、ジャファールが納得していないことは、凍りついたように硬い表情から伺えた。

「死んでいい者など、一人もいない。私は彼等の犠牲の上に立っているんだ」

「生き残る度に、修羅を見ます……それでも、御身を案じて悲嘆に暮れていた我々は、今こうして無事にお会いすることが出来たことを、シャイターンに心から感謝していますよ」

 サイードの言葉に全員が深く頷くと、ジャファールもようやく表情を緩めた。凍りついた彼の心の端を、ほんの少しでも溶かせたのかもしれない。

「判ってる、判っている……アルスランは腕を失くしても、帰ってきてくれた。だから私も……どれほどの絶望が待っていようとも、引き留める声を聞く度に、帰らねばと思った。たとえ腕を失くしても、足を失くしても……死んだとしても、絶対に――っ」

 悲痛な嘆きは、潤みかけて不自然に途切れた。言葉を続けられなくなったジャファールは、静かに顔を掌で覆う。
 その姿を見て、苦境を共にしたモンバールとオルベスは泣き崩れた。
 身を裂かれるような魂の慟哭――
 身体だけではない、彼等は心にも深い傷を負っていた。癒えるまでに、長い時間を要することだろう……。
 せめて、一刻も早く彼等を味方の元へ連れて帰ってやりたい。

「……よくぞ、生きていてくれました。帰りましょう、国門でアルスラン将軍も待っていますよ」

「あぁ――」

 くぐもった声が、哀しみの流れる部屋に落ちた。
 青い星の清らかな斜光は、嘆きくずおれる同胞を慰めるように、彼等の上に降り注いでいた……。

 +

 その日のうちに、サイードは烽火ほうかでジャファールの無事を知らせた。
 これを目にした斥候はすぐに本陣に伝え、各拠点にハヌゥアビスへの決勝、そしてジャファールの無事が通知された。
 全員が歓喜したことは言うまでもない――