アッサラーム夜想曲

手紙 - 2 -

 ― 『手紙・二』 ―




 戦場の中にあっても、天幕の中は不思議な清涼感に包まれていた。仄かに漂うジャスミンの香りは、ここが深い密林であることを忘れさせてくれる。
 天井は高く、吊るされた照明の明かりが、贅をこらした幾何学模様の床を照らしている。柔らかな天鵞絨びろうどの絨緞は、踏みしめることを躊躇うほどだ。

「少し、話を聞いてもいいですか? そこにかけて」

 どきどきしながら、示された天鵞絨貼りの肘掛椅子に腰を下ろすと、ムーン・シャイターンは花嫁ロザインの手紙に視線を落としたまま口を開いた。

「光希は、負傷兵の世話に時間を割いているようだけど、ケイトはその様子を見たことがありますか?」

「はい、ちらとですが……」

「どんな様子でしたか?」

「とてもお忙しくしていらっしゃいます。開戦してから、負傷兵達が次々に運ばれるようになって、部屋を空けるのに苦労しています。人手が足りず、アージュやナフィーサも、殿下の手を助けています」

 記憶を辿りながら答えると、彼は瞳に案じるような光を灯してケイトを見た。

「ちゃんと休んでいますか?」

「それは……」

 言い淀むケイトを見て、彼は全てを察したようだ。さり気なく嘆息すると「もう少し触れておこう……」と何やら呟き、机上の手紙に筆を走らせる。

「アルスランの復帰は、本当に喜ばしい。ジャファールの安否はようとして不明ですが、たとえ神眼に映らなくとも、私には彼が息絶えたとは到底思えないのです」

「私もです。アルスラン将軍もジャファール将軍のお帰りを信じて待つと」

 ムーン・シャイターンは軽く微笑んで頷くと、再び手紙に視線を落とした。

「ところで……ルーンナイトのことが多々書かれているのですが……彼は病室に頻繁に出入りしていたのですか?」

「え? そんなはずは……。ルーンナイト皇子は輜重しちょう隊や斥候せっこう隊の指揮で、大変お忙しくされていました。その上宮殿への報告も務められておりましたから……」

 衛生の手伝いまでは、とても手が回らなかったはずだ。あの多忙を極める日々に、花嫁が手紙に書くほどの接点など、あったのだろうか……。
 しかし、考えを巡らせていると、ふと思い当たる光景があった。

「あ……病室にはいらっしゃらなかったと思いますが、城壁や中庭でお話しされているお姿でしたら、何度かお見かけしました。もしかしたら、その時のことを書かれたのでしょうか?」

「城壁ですか?」

 不意に声に不機嫌が滲む。まずいことを言ってしまったのだろうか……。

「アージュは傍にいましたよね?」

 探るように問われて、必死に記憶を探らねばならなかった。遠目に見かけただけだし、意識して見ていなかったから、正直あまり記憶に自信がない。

「――いえ、つまらないことを聞きました。そうであると思っていた方が、心安らかでいられるので、そう思うことにします」

 しどろもどろで視線を泳がせるケイトを見て、彼の方からこの話題を終結させてくれた。

「は、はい……」

「ノーヴァにも寄ったと話していましたね。どんな様子でしたか? 援軍が集結しているはずですが責は重い。ルーンナイトに気負った様子はありませんでしたか?」

 密かに胸を撫で下ろした。それなら自信を持って答えられる。

「とんでもありません。大変お頼もしい様子でいらっしゃいました。布陣も間もなく整い、迎え撃つ準備は着々と進んでいます。兵の士気も高く、闘志に溢れておりました」

重畳ちょうじょう

 美貌に笑みかけられ、ケイトは妙に緊張しながら背筋を伸ばした。

「あの……私は、中央の伝令は初めてですが、ここの空気も勢いがあると、肌で感じております」

 膝においた拳を握りしめながら、ケイトにしては頑張って伝えたが、頼りなげな口調は相変わらずだ。
 しかし対峙する彼は、瞳に光を灯してケイトを見るや、しっかりと首肯した。

「次こそは、全ての力を出し切る総力戦になります。必ずハヌゥアビスに勝利してみせる――手紙にも書きましたが、ケイトからも光希に伝えてください」

「はいっ!」

 重大な使命だ。返事する声は少し掠れたが、彼は笑ったりしなかった。

「任務の合間に、よく届けてくれました。大変だったでしょう。山岳の夜を恐れず、駆けてくれてありがとう」

 労ってもらえるとは思っていなかったので、何だか、とても感動してしまった。もっと「ご苦労」とか「良し」とか一言二言で済まされると思っていた。

「お優しい言葉、ありがとうございます。味方の烽火ほうかのおかげで、私でも迷わずに飛ぶことが出来ました。殿下がなかなか渡せない様子でいらっしゃいましたので、届けてさしあげたいと思った次第です」

 暖かな気持ちのままに応えると、彼も嬉しそうに口元を緩めた。

「ふふ、その様子は、ナフィーサの手紙にも書いてありました。こんなに癒される手紙をもらったのは、初めてですよ。光希はなかなか返事をくれないから……嬉しいものですね。明日から気を引き締めないと」

 はにかむムーン・シャイターンを見て、頑張った甲斐があったと、ケイトは心の底から思った。

「これを、光希に」

「必ず――」

 美しい流麗な文字で署名された、ムーン・シャイターンの返事を受け取り、今度は花嫁に届けるのだと思うと、とてもわくわくする。
 満面の笑みを浮かべるであろう、花嫁の姿が今から目に浮かぶから。

 +

 とんぼ返りで国門に戻ると、真っ先に花嫁の姿を探した。
 ムーン・シャイターンからの手紙を渡すと、思った通り、輝くような笑みを浮かべて両手で受け取ってくれる。

「ありがとう、ケイト!」

「お役に立てて、光栄です」

 傍らに控えるナフィーサもとても満足そうにしている。多少無理やりにでも届けて良かったと、お互いに思っていることは顔を見れば判る。
 恋人からの手紙は、一人で読みたいものだろう……。
 大切そうに両手で持つ花嫁を見て、邪魔をせずその場を去ったが、後でこっそりナフィーサに様子を聞いてみようと思うケイトであった。