アッサラーム夜想曲

花冠の競竜杯 - 10 -

 夜の静寂しじまに、深夜を告げる鐘が控えめに響く。
 善良なアッサラーム市民が疲れた体を横たえ、眠りに就いている頃、賭博の宮殿ポルカ・ラセには皓々こうこうと明りが灯されていた。
 豪奢な造りの宮殿に、人目を偲ぶようにして、黒塗りの馬車が裏口に入っていった。従業員が恭しく扉を開くと、アースレイヤに続いてジュリアスが姿を現した。
 これから、ポルカ・ラセの七代目支配人、ヘイヴン・ジョーカーと密会を行うのである。
 両開きの扉を開いて、くだんの支配人が現れた。
 端正な顔立ちをした年齢不詳の男で、世慣れた退廃的な魅力を匂わせている。雪花石膏アラバスターを思わせる白い紳士服に身を包み、長髪は後ろで一つに結って、背中に垂らしている。
「お待ちしておりました」
 ヘイヴンは、銀縁の片眼鏡の奥からほほえむと、恭しく膝を折った。
 年は、三十を幾らか過ぎたくらいだろうか?
 彼の複製画が飛ぶように売れるというのも頷ける。相手を虜にし、翻弄して惑わせる容姿の持ち主だ。
 彼は、アースレイヤとジュリアスを鏡板で隠された秘密の通路に案内した。
 途中の踊り場で、ジュリアスは、金縁の額におさめられた、矍鑠かくしゃくとした男性の肖像画に目を留めた。
 その視線を辿り、ヘイヴンも肖像画に目を注ぐ。
「私の恩人、先代の支配人であるラムジー・ジョーカーです」
 ジュリアスは軽く頷いた。ヘイヴンが養子であることは聞いている。血は繋がっていないはずなのに、雰囲気が似ているように感じるから不思議だ。先代と同じように、ヘイヴンも人生の醍醐味、情熱を高級社交場に捧げているせいからかもしれない。
 書斎兼執務室に入ると、ヘイブンと卓を挟んでジュリアスとアースレイヤは腰をおろした。
 卓には、酒や煙草の嗜好品がたっぷりと並べられていた。
 アースレイヤは黄金の酒杯に口をつけたあと、さて、と切りだした。
「率直にいいましょう。競竜杯の公式賭博場の最有力候補に、ポルカ・ラセの名が挙がっています」
 アースレイヤは優雅な仕草で足を組み、穏やかな笑みでいった。
「光栄です」
 ヘイヴンは胸に手をあて、恭しく会釈した。アースレイヤは軽く頷き、続ける。
「ご存知かと思いますが、穏健派は競竜杯の賭博に否定的です。私は独断で敢行することもできますが、意見対立が深まることを避けたいと考えています」
「懸命なご判断です」
「ええ。妥協案として、公式賭博場を一か所に限定するつもりです」
 その言葉にヘイヴンは瞳を輝かせた。期待に応えるように、アースレイヤはほほえむ。
「仮にポルカ・ラセに決まった場合、競合から圧力がかかるでしょう。そうなった時、貴方は戦う自信がありますか?」
 ヘイヴンは大きく頷いた。
「もちろんです。ポルカ・ラセは二百年続く遊戯場です。栄誉を貶める者は、相応の覚悟をしていただくことになるでしょう」
「私も貴方の経営手腕は買っています。先代から引き継いだあとも、順調に利益を伸ばしているようですね」
 ヘイヴンは、歴史ある遊戯場を風化させず、客と金を分離する算術の宮殿――大金の奏でる交響曲の殿堂として完成させた。訪問客の落とす年間総額を、先代から引き継いだ僅か二年の間に、倍に増やすという偉業を為している。
 その輝かしい経営手腕を、アースレイヤは高く評価していた。彼の懸念すべき過去について、ジュリアスから聞き及んではいるが、それを差し引いたとしても余りある商売の才だ。
「ありがとうございます。私が業績を伸ばせたのも、大戦を制しきった、アースレイヤ皇太子を始めとする軍の皆様のご尽力の賜物です」
 アースレイヤは微笑を浮かべたまま、吟味するようにヘイヴンを見つめた。
「闘いの芽はどこにでもあるものです。この遊戯場が戦場にならないとも限りません。武力で迫られた時に、自衛する手段はありますか?」
「遊戯場に荒事はつきものですから。当館の従業員は、戦闘を心得た者が殆どです」
 ヘイヴンは自信に満ちた、深みのある声でいった。
「酔客をあしらうのとはわけが違いますよ。公式賭博場に決まれば、刺客に命を狙われる危険も出てくるでしょう。そうなった時、貴方は自衛できますか?」
「これまでにも、幾度も狙われてきましたよ。今この場に私がいることが、何よりの回答にならないでしょうか?」
「よろしい。ならば、こちらをお渡しいたしましょう」
 ついに、アースレイヤは机の上に羊皮紙の契約書を差し出した。公式賭博場の取り決めが、細かな文字で記されている。
「……ポルカ・ラセに決めていただけるのですか?」
 アースレイヤはほほえんだ。
「決めましょう。貴方に投資します。競竜杯の盛況を期待していますよ」
 ヘイヴンは喉を鳴らした。
 今この瞬間、途方もない栄誉と富が、手の中に舞いこんできたも同然だった。手が震えそうになるのを堪えながら、誠意の籠った口調でいった。
「ありがとうございます。誠に欣快きんかいの至りです。必ず、ご期待に応えてみせます」

 密会を終えたあと、アルサーガ宮殿に戻る四輪馬車の中で、ジュリアスとアースレイヤは、ヘイヴン・ジョーカーについて意見を交換した。
「有能な男であることに違いはありません。多少の欠点には目を瞑ります」
 と、最終的にアースレイヤは結論づけた。
「彼が財団に通じていたとしても?」
「粗を探せばきりがありませんよ。それに、その情報も今の段階では、不正確かもしれませんよ」
「そう思いますか?」
 二人の視線が交差する。お互い、評議会と軍の全域に浸透するほどの諜報網を持っており、ほぼ正確な情報を得ていた。
 華々しいポルカ・ラセの支配人には、昏い過去がある。ヘイヴン・ジョーカーは偽名で、クシャラナムン財団に囲われていた頃は、別の名で男娼をしていた。うまく逃げ出したようだが、関係は清算できていない。賭博の宮殿に、今も財団関係者が出入りしている情報を、ジュリアスの諜報は掴んでいる。
「どんなに優秀な諜報を抱えていても、報告書も伝聞に過ぎませんからね……まぁ、貴方は例外かもしれませんが」
 ジュリアスには千里を見透す超常の力があることを思い出して、アースレイヤは言葉を濁した。
「ともかく、彼には投資の価値があるといいましたよ。今のところ、彼をおいて他に、あの賭博の宮殿を任せられる人材はいないのですから」
「財団に内部の情報を漏らしている人間がいるというのに、彼まで通じていたら厄介な事態になりますね」
 暗にアースレイヤの人選を非難すると、彼は窓枠についていた頬杖をほどいて、どこか軽薄な笑みを浮かべた。
「泳がせておきなさい。霧中からようやく姿を見せてくれたのですから」
「そうやって、貴方は傍観ですか?」
「ふふ」
 ジュリアスは冷たい一瞥を投げたが、アースレイヤはいつもと同じ柔和な表情で微笑した。
 ジュリアスは面白くはなかったが、アースレイヤの言葉にも一理あると認めざるをえなかった。
 これまでなかなか尻尾を掴ませなかった、クシャラナムン財団の大幹部を捕らえられるかもしれないのだ。
 ジャプトア・イヴォー。
 財団の超大物が、アッサラームのどこかに身を隠している。
 厳重な哨戒網しょうかいもうをかいくぐって、財団の人間を招き入れた評議会の重鎮にも、見当はついている……
 あとは、いつどのようにして、彼等をひっ捕らえるかだ。