アッサラーム夜想曲

第4部:天球儀の指輪 - 20 -

 屋敷に戻ると、図書室から天文学信仰の資料を持ち出して、絨緞に寝そべり読みふけった。

「熱中されていますね」

 ナフィーサは紅茶を給仕しながら、光希の手元を見て微笑んだ。

「うん、ちょっと興味が湧いて……ナフィーサも、神官宿舎で暮らしていたんだよね?」

「はい。五つの時から、殿下の傍仕えに召し上げられるまで、宿舎で暮らしておりました」

「どんなところ?」

「シャイターンの教えにならって祈りと労働のうちに共同生活を送る場です。アッサラームの中でも特に厳しい戒律で知られております」

「五歳から暮らしていたの?」

 光希が眼を瞠って尋ねると、ナフィーサはどこか遠い眼をして、当時の記憶を紐解くように口を開く。

「そうですね……それまでは何不自由なく暮らしていましたから、宿舎に移ってからは泣いてばかりいました。ですが……静寂の中で、見えてくるものもたくさんあります。今ではアッサラームの思し召しに感謝しておりますよ」

「ナフィーサって……本当に十一歳?」

 少年は大人びた表情で「本当でございますよ」と微笑んだ。光希よりよほど達観している。
 ふとナフィーサの右手に嵌められた指輪に視線が留まった。

「それ天球儀の指輪?」

「はい」

「見せてくれる?」

 ナフィーサから指輪を受けとると、留め金を支点に指輪を広げてみせた。

「よくできているよねぇ。数学的な美意識すら感じる。アッサラームの天文学信仰って、もっと霊的な話だと思ってた。神様が実在しているし……でも、僕の知っている数学的要素も多い気がする」

「万象の全てを計ることは出来ませんが、数式に表せることも多いですからね。天上人の数式とは、どのようなものなのですか?」

 それは難しい質問だ。

「うーん……例えば、空に浮かぶ遠くの星を観測したり、天体の運行に関する法則ができたり、万有引力の法則が発見されたり、僕の世界でも皆、宇宙に……神々の世界アルディーヴァランに夢中だったんだ」

 ナフィーサは「同じでございますね」と眼を輝かせて微笑んだ。
 本当は彼の語る宇宙と、光希の知っている宇宙には認識の差があることを知っている。
 けれど、それをわざわざ指摘して問い質す気はない。彼等の信じているものを、否定する必要なんてどこにもないのだ。
 光希にも、もてる知識でこの世界を解き明かせやしない。最たるは、紛うことなき存在するシャイターンの存在だ。
 天文学信仰の教義では、シャイターンは西の海に大陸を浮かべ、一番最初に地上の星たる、全ての威を集める“聖都”を作ったとしている。
 実際、アッサラームには、ムーン・シャイターン、建国皇家、そして大神殿の権威が全て揃い、金色に光り輝いている……。
 神話はそのまま実話に通じるところが、この世界のすごいところだ。
 青い星を仰いで、ふと閃いた。
 天体望遠鏡を自作できないだろうか。もしかしたら、ジュリが神眼で見る世界を、ほんの少しでも覗けるかもしれない。
 想像を膨らませて図面を起こすうちに日は暮れて、湯を浴びてからも設計を続けた。明日アルシャッドに見せるつもりだ。
 テラスに置いた照明の明かりで手元を凝視していると、ふっと影が差した。

「何をしているんですか?」

「ジュリ! お帰り」

「これは何の図面?」

 思慮深い青い双眸で、光希の手元を覗きこむ。

「あぁ……天体望遠鏡を考えてたの。これがあれば、神力に頼らなくても、ある程度は肉眼で遠くの星を見ることができるかなと思って」

 夜空を仰いで応えると、ジュリは隣に座り光希を抱き寄せた。

「それは……あの星の向こうを見てみたいから?」

 声には探るような響きがあった。

「あ……違うからね。あの星が僕の知っている星と違うことは判ってるんだ」

 ジュリが言うには、心眼で垣間見る青い星には、空に浮かぶ神殿があったり、背中に羽を持つ佳人が翔けていたりするらしい。まさしくこの世ならざる神の世界だ。

「ジュリが見ている世界を見てみたいなって思って」

「私は、あまり見せたくないな……」

 思わずジュリを見つめると、憂いを含んだ瞳に迎えられた。

「光希が遠くへ、行ってしまいそうな気がするから……」

「――……」

 否定しようとしたら、不意に懐かしい故郷が胸をよぎった。家族の顔や街並みが脳裏に閃く。もう二度と帰れない過ぎ去りし世界。懐かしい人達は、元気にしているだろうか……。

「ん……」

 心を飛ばしていると、ふと唇を塞がれた。触れては離れて……何度も柔らかく唇を吸われる。
 たちまち心を引き戻された。宝石のような青い瞳が視界いっぱいに映る。光希の帰る場所はここだけ。今度は自分から唇を重ねた。