アッサラーム夜想曲

第2部:シャイターンの花嫁 - 35 -

「コーキは割と流されやすいから。ブランシェット姫に迫られたら、拒めなかったのではありませんか?」

 さも疑わしげに、ジュリアスは青い瞳を胡乱げに眇めた。

「失礼! ジュリの想像でしょ。彼女が僕に迫るなんて、ありえない」

 なんといっても、彼女には女装を笑顔で褒められたのだ。哀しいが、男として見られていない気がする。

「もし、コーキがいけば、アースレイヤもいっていたでしょう。初心なコーキを籠絡するなんて、彼等には赤子の首を捻るより簡単です」

「どうして、リビライラ様やブランシェット姫が、そんなことを……」

 納得がいかず、声の調子を落として睨むと、ジュリアスは冷めた目で応えた。

「アースレイヤの嫌がらせです。狙いやすいコーキに目をつけて、何かと邪魔をする……コーキの知らないところで、私は何度も火の粉を振り払っていますよ」

「……本当?」

 初耳だ。光希はまじまじとジュリアスの顔を見つめた。

「あまりに鬱陶しいので、昨夜は取引をしてきました。宮女の正装をコーキに強要しないこと、婚姻の妨げをしないこと、ブランシェット姫を使ってコーキを誘惑しないこと……諸々」

 見下ろす眼差しが迫力を増す。怯んだように光希が身体を引くと、逆にジュリアスは身体を倒して迫ってきた。

「子飼いの隠密を動かして、娘を攫い、豪商に話をつけて……奔走する私を見て、アースレイヤは楽しそうに笑っていましたよ。対価の一つも欲しくなるではありませんか」

 頬を手の甲で撫でられた。蠱惑的な眼差しで見つめられて、光希は目を逸らすことができなくなった。

「えっと……心配かけて、ごめんなさい。だけど、一つ勘違いしているよ。ブランシェット姫はかわいいと思うけど、好きとは違う」

「惹かれたことは、事実でしょう。理屈ではないのだと、先日、コーキも私をなじったではありませんか」

「それは……」

「同じ公宮にいる限り、すれ違うことがあるかもしれない。心が狭いといわれるかもしれませんが、心穏やかではいられませんでした」

「でも、ブランシェット姫は、んっ」

 いい募ろうとすると、唐突に唇を塞がれた。絨緞の上に身体を倒されて、たちまち口づけは深くなる。

「ん……っ」

 最後に上唇を食まれて、ゆっくりと端正な顔は離れた。光彩を放つ青い瞳で、熱っぽく光希を見下ろしている。
 戸惑ったように視線を揺らした光希は、思いついた懸念を、そのまま口に乗せた。

「ブランシェット姫がアースレイヤ皇太子を好きなら、降嫁の話を彼から聞かされるのは、傷つくんじゃ……」

「だから?」

 青い瞳に剣呑な光が宿る。怒らせてしまった? びくびくしながら様子をうかがっていると、手を引かれて身体を起こされた。

「コーキがそんな風だから、いちいち勘ぐってしまうのです。どうして心配するのですか? 優しさ? それとも――」

 不安そうな顔をするジュリアスの頬を、両手で包みこみ、無理やり視線を合わせた。

「僕はジュリが好き。信じないの?」

「……コーキは最初から同性愛に抵抗があったし、宮女の恰好も嫌がるし、あの娘を想う貴方を見ていると……不安になります。かわいい、と貴方の口から聞かされる度に、胸の内は酷くざわつくのです。私は、その度に責め立てそうになる衝動を堪えて……」

「ジュリ……」

「コーキは私が何もいわないと責めるけれど、明かせば怯えるに決まっています。私がその気になれば」

 言葉を切ると、ジュリアスは頬に押し当てられた光希の手を、そっと外した。
 ひんやりとした空気が流れて、青い燐光がジュリアスの身体から溢れ出す。
 薄く開いていた窓は独りでに閉まり、扉は小さく施錠の音を立てた。ほら、閉じ込めた……というように。
 表情を凍らせる光希を見て、ジュリアスの表情は翳った。
 掴まれていた手を離されて、光希の方から掴み直した。身を乗り出して、触れるだけのキスをする。驚きに見開かれた青い瞳を見つめて、そっと唇を開いた。

「ジュリが男でも、女でも、好き」

「……」

「僕も……ジュリを愛している」

 冷気はたちまち溶けて、閉ざされた室内に穏やかな風が吹いた。
 ジュリアスは、口を手で押さえ、恥じらうように顔を背けている。思いがけず、かわいい反応を見せられて、光希は表情を綻ばせた。
 光希の方から腕を伸ばして、頭を包みこむように引き寄せると、長身はおずおずと傾いた。素直な反応に胸をときめかせながら、柔らかな金髪に指を潜らせた。

「かわいい」

 耳元で囁くと、腕の中でジュリアスは小さく身じろいだ。抱きしめて、髪にキスをして……いつもと立場が逆だ。

「いいよ、ジュリの好きなようにして。ブランシェット姫はかわいそうだけど……僕は、ジュリを優先する。僕だって、誰にでも優しいわけじゃないよ」

 誰からも好かれたいとは、思っていない。他の誰かに恨まれたとしても、ジュリアス以上に大切なものなんてない。
 彼が迷わず光希を選んでくれるように、光希の一番も、ジュリアスと決まっている。
 想い、想われることの奇跡を噛みしめていると、思考がぼやけて、とろとろとした眠気が襲ってきた。
 一晩中起きていたせいもあり、緊張が緩んで、一気に眠気がやってきたようだ。

 眠りに落ちる瞬間、お休み、という優しい声を聞いた気がした。