ネロアの闘いで三千あまりの命が散った。敵であるアレッツィア勢が大半をしめるが、ネロアの兵士も決して少なくはなかった。敵兵のおびただしい数の屍は燃やされ、粉塵は草原に撒かれた。味方の遺体は可能な限り血縁者の手に届けられ、もはや正体不明なまでに破損した遺体は、同じく燃やされた。
 爆ぜる焔は白煙を立ち昇らせ、哀切の弔鐘ちょうしょうを明け方まで響かせていた。
 街全体が三日あまり喪に伏し、その間は街路や開け放された窓から、もの哀しい竪琴シターンの響き、すすり泣きが聞こえていた。
 無傷とはいかなかったが、月狼の歴史は縄張り争いと共にある。たくましい戦闘民族である彼等は、喪が明けたあとは、外壁の修復や復旧作業に率先して取り組んだ。
 闘いから七日。
 生死を彷徨っていたギュオーの意識も戻り、彼の家族はもちろん、ネロアの全ての民の心に希望を灯した。
 彼は、目醒めたその日に寝台から起きあがり、執務室にシェスラやラギスを呼び、正式に謝罪をした。
「倅が恩義に背く真似をして、誠に申し訳ありませんでした。不甲斐ない私に代わり、前線で指揮をとり、この国をお守りいただいたこと、心より感謝申し上げます」
 あの月蝕前夜祭の夜、イヴァンは地下通路を使って城に潜りこみ、ギュオーに面通りした。恩情を求めたが認められず、アレッツィアに寝返るとも脅したが、それでもギュオーには通じなかった。再度の追放を申し渡され、世を拗ね、半ば自棄になり、あのような行動に至ったのだ。
「イヴァンの所業は私の責任です。あれが、救いようのない邪悪な心をもっていると知っていても、命をとることだけはできませんでした」
 ギュオーは苦悩の滲んだ声でいった。イヴァンにも無垢な子供時代はあった。なぜ、ああも堕落してしまったのか……いつか目を醒ましてくれることを期待して、冷酷に排除することができなかった。悪の深淵に落ちていく前に、救いあげることができていたならば――今でも考えない日はない。
「そなたの倅を斬ったのは私だ。だが、そなたはネロアの命運を私に預けてくれた。兵士たちも私を信じてよく闘ってくれた。そなたは、ネロアの長として果断をくだしたのだ」
 シェスラの言葉に、ギュオーは苦い想いを嚥下するように目を瞑り、頭をさげた。
「大変ご迷惑をおかけいたしました。不甲斐なく私が伏している間、ネロアの窮地をお救いくださった。この大恩を生涯忘れることはありません。心からの感謝と忠誠を捧げます。我が一族は、全身全霊をもって、貴方の御代をお支えいたします」
 彼は、イヴァンの死を厳粛に受け留めていた。群れを率いる長の責務をよく理解しており、一族の争議を鎮め、息子を失った悲しみを表にだすようようなこともしなかった。
 その懊悩おうのうを慮り、シェスラはしっかりと頷いて、
「よろしく頼む」
 ギュオーは恭しく手を胸に添えてお辞儀したあと、傍にラハヴを呼んだ。
「我が大王きみに一つ、ご報告があります。家督をラハヴに譲ることに決めました。未熟なところはありますが、民を思う心は強い。今後は私が補佐を務めながら、少しずつ採決を任せていくつもりです」
「そうか。今から債務を負った方が、実力が具わるのも早いだろう」
 シェスラはラハヴを見つめて、実感のこもった声でいった。
 戦争が始まれば、輜重しちょうかなめにするネロアにも負担はかかる。領民から不満の声が時にはあがるだろう。
 そうなった時、矢面に立って鎮めるには、ラハヴのような男がいい。不器用でも実直に仕事をこなし、領民の為に奔走する姿は、その土地に暮らす月狼の心を動かすだろう。
「これから、全ての部族を巻きこんだ大兵乱が起こる。そなた達の助けがあれば、私も心強い」
「は、はい! 精一杯務めさせていただきます!」
 緊張のあまり、ラハヴの声は少し震えていた。だが、眼鏡の奥で藍色の瞳は理知に輝き、希望に燃えている。彼が恭しく頭をさげるのにならい、その場の全員が頭をさげた。

 日は進み――
 復旧のさなか、街は活気づき始めていた。市場には物見高い人々が群れ集まり、露店を冷やかしたり、広場で休憩していたりする。
 諸々の事後整理が片付き、シェスラが出立をギュオーに告げると、彼は別れを惜しみ、そこから三日ほど将兵らと共に酒盛りに興じた。
 野営地は朝から晩まで騒がしく、底なしのロキは輪の中心で哄笑こうしょうを飛ばしていたが、多くの兵士はへべれけに酔っぱらい、その辺で吐いたり、朝陽が昇っても青褪めた顔で転がったりしていた。
 ラギスは最初の二日はロキやラハヴ達と飲み、三日目はシェスラに呼ばれて彼と近衛達と飲み、四日目はもはや飲み疲れて休んでいた。
 ようやくネロアを発つ日も、将兵らは青褪めた顔で少々ふらついていた。
「我が大王きみ 、道中のご無事をお祈りしております」
 楼門まで見送りにきたラハヴ達を見て、シェスラは友好の笑みを浮かべた。
「世話になった。酒と馬の贈り物にも感謝する」
 シェスラの言葉に、ラハヴは感極まったようにかぶりを振った。
「我が喜びです。他にできることがあれば、何なりとお申しつけください。私は永久に我が大王きみ の、忠実な臣下です」
 鷹揚に頷くシェスラを、またか、といった目でラギスは見ていた。他の月狼がそうであるように、彼もまたシェスラに対して服従の渇望を覚えているらしい。
 彼等の挨拶が済んだのを見て、ラギスはラハヴに馬を寄せた。目があった青年は、彼らしい呑気な笑みを浮かべた。
「ラギス様、ネロアをお守りいただき、本当にありがとうございました。道中のご無事をお祈りしております」
「おう。そっちもしっかりやれよ」
 ラギスは、最大の感謝をこめてラハヴに笑みかけた。途端に、眼鏡の奥で藍色の瞳が眩しく煌く。
「はい! 近くを通る際には、ぜひお立ち寄りください! ラギス様達ならいつでも大歓迎ですよ」
「おう、またくるぜ」
 気やすいラギスの返事に、ラハヴは嬉しそうに何度も頷いた。今度はモルガナが進みでて、親愛のこもった笑みをラギスに向けた。
「元気でね、ラギス。ネロアに力を貸してくれて、どうもありがとう」
 彼女もまた、感慨をこめた声でいった。ラハヴとガルシアの肩にしなやかな腕をまわし、
「今度は私たちが力になるわ。後衛は任せて。大王様がラピニシアへ遠征している間、どんな部族が襲ってきても、絶対にネロアの先へはいかせない」
「ああ。頼りにしている」
 モルガナの顔が輝く。情のこもった視線を交わしていると、出立を告げる喇叭が蒼天に鳴り響いた。
 隊伍たいごが動き始めると、陽気に笑っていたモルガナの表情が、突然に曇る。ガルシアも潤んだ藍色の瞳で、馬に乗ったラギスを仰ぎ見た。
「お元気で!」
 ラギスも名残惜しい気持ちを味わいながら、元気でやれよ、と同じ言葉を返した。
 短期間ながら、密度の濃い時間を共有し、共に困難に立ち向かったことで、彼等とのあいだには深い信頼と友情が生まれていた。次に会える日が十年後だとしても、変わらぬ笑顔で挨拶を交わすだろう。友が助けを必要としているならば、いつでも力になるだろう。
 ここで勝ち得たものは大きい。単純にアレッツィアに勝利したこと以上のものを、シェスラは、ラギスは手にしたのだ。
 楼門をくぐりぬけたあと振り返ってみると、藍色の瞳の兄弟達はまだそこにいて、小さくなった姿で手を振っていた。
 彼等の姿が見えなくなる前に、ラギスも最後に、軽く手をあげてみせた。