星暦五〇三年。八月二十二日。
 青銅製の柱時計が、戦術会議室に軍議の始まりを響かせた。
 重厚な部屋である。大理石の床には、濃紺に金を織りこんだ厚手の絨毯が敷かれ、燭台のついた溝彫りの支柱が格天井を支えている。上級士官達の頭上には、月狼銀毛騎士団の紋章を意匠された垂れ幕がさがり、細長い窓から降り注ぐ午後の日射しが、その輪郭の一部を照らしていた。
 柘榴石ガーネットを思わせる暗紅色に輝く革張り椅子に、シェスラは優雅に腰かけている。その後ろに四騎士が控え、左隣には副司令官のインディゴ、右隣にラギスが着座している。
 集まった上級士官達の中には、初めてラギスを見る者もいて、彼等は興味深そうにラギスを眺めていた。
 本来であれば、正騎士であるラギスに軍議の参加資格はないのだが、シェスラが呼んだのである。ラギスは騎士服の上下に軍靴を履いて、臆することなく堂々と構えている。その威容に感心する者もいれば、眉をひそめる者もいた。
「さて、間もなくネロアに出兵するわけだが、よく心に留めておいてほしいことがある」
 そう前置いてから、シェスラは軽く右手をあげて合図をした。心得たようにヴィシャスが動き、真鍮の台座に支えられた天球儀を運んできた。
「これは天体の動きを知る道具である。ネロア領に入り、ベルタルダ城について七日後、月蝕が訪れる」
 騎士達の間に、困惑と動揺がさざなみのように拡がった。
「静粛に。アミラダの知らせた星のことわりである。凶兆と畏れることのないように」
 しかし騎士達の顔には不安が滲んでいた。月狼にとって、霊力の象徴たる月の翳りは、古来より凶兆とみなされている。いっさいを塗りこめる暗闇のもとでは、獣化もままならず、人間の四肢で闘わざるをえないのだ。
 シェスラは天文具を用いて月蝕の何たるかを十分に説明したが、彼等の恐怖心を払拭するには至らなかった。騎士達は顔を見合わせ、弁を交わしている。
 月狼の本能を克服するのは容易ではない。時間を空けて、何度か説明を繰り返す必要があるだろう……そう判断し、シェスラは議題を変えることにした。
「今後の訓練では、狭間胸壁さまきょうへきでの戦いを想定した、隘路での戦闘訓練をさせるように」
 シェスラは天文義を片づけさせると、黒檀の机の上に特別にあつらえた剣を並べさせた。その一つを手にとり、通常の剣と比べてみせた。
「ネロアに向けて用意した武器だ。この通り、通常の剣よりも刃は短くできている。狭い足場でも機動がとりやすい」
 これには騎士達の間から、賛同の声があがった。
「あまり時間はないが、頼んだぞ。インディゴ」
 指名を受けてインディゴは力強く頷いた。
「大王様の意に沿うよう、邁進まいしんいたしましょう」
 と、彼がいうからには、明日の訓練はこれまで以上にきついしごきになるのだろう。平静を保ちながら、ラギスは心の内で呻いた。
「……ところで、ネロアで戦闘が起きるのは間違いないのか?」
 ラギスが口を挟むと、そうだ、とシェスラは視線を向けて頷いた。
「ネロアはまだ、アレッツィアにつくか、セルトにつくか態度を明らかにしていないんだろ?」
 水晶の瞳を見てラギスはいった。
「援軍を求めてきた時点で、答えをだしたも同然だ。私が出兵すれば、アレッツィアの盟友国は粉をかけてくるだろう」
「判っていて、騎兵連隊たったの五百でいくのか」
 ラギスの疑問は、この場にいる全員の疑問だった。
「大所帯でいけば、ネロアにも他の族長にも警戒される。機動性に富む、ちょうど良い人数が五百だ」
「ネロアと和睦がなるとも限らないのだろう? 見晴らしのよい平原で囲まれたら、袋叩きにあうぞ」
 ラギスは率直に訊ねた。その遠慮のない口ぶりは、幾人かの騎士をぎょっとさせたが、シェスラは面白がるように瞳を煌かせた。
「大王様に向かって何を申すか」
 渋面の騎士が怒気を孕んだ声でいうと、他にも獰猛な唸り声をあげる者がいた。しかしシェスラは意に介さず、視線で黙らせた。しんと部屋が静まりかえるのを待って、おもむろに言葉を継いだ。
「どの道、総数勝負では相手に分がある。奇策を投じる必要があるわけだが、ちょうどネロアでしか使えない戦法がある」
「どんな?」
「ネロアは見た目通りの平原立地ではない。地下に巨大な迷路が張り巡らせている」
「迷路だと?」
 訝しげに訊ねるラギスに、シェスラは頷いてみせた。
「そうだ。狙われやすい平原立地にありながら、数百年もの間、侵略から身を守ってこれたのは、地下に隠された秘密のおかげだ」
「聞いたことがないぞ。それは本当なのか?」
「私の情報網を甘く見てもらっては困る」
「地下迷宮があるとして、どうするんだ? 逃げこむのか? それとも誘いこむのか? だが敵に明かしては元も子もないだろう?」
 シェスラはほほえんだ。
「全容はいずれ明らかになる。一つだけいっておこう。圧倒的な総数差には、不利と有利がある。やりようによっては、五百で一万を返り討ちにすることも可能だ」
 どこからくるんだ、その自信は――ラギスは喉でつっかえている言葉を、無理やり飲みくだした。
「あんたは、地下の構造を知っているのか?」
 もはや大王に利く口ではない。当然、不満そうな顔をする騎士もいたが――ヴィシャスは射殺しそうな瞳でラギスの後頭部を睨んでいる――殆どの者は会話に集中し、耳を澄ませていた。
「知らぬ。それこそ、ネロアの最大機密だからな」
「それでどうやって戦法を練るんだよ」
「問題ない。ネロアにいけば族長が教えてくれる。楽しみにしておくがいい」
 稀代の戦術家が悠然とほほえむだけで、騎士達は顔を輝かせた。これまでの闘いで証明してきた通り――彼が問題ないというからには、事実ないのである。