ラギスと共に森を駆けてから、シェスラは国王として、軍事の長として、外交と政治の要として精力的に動いていた。何をするにも効率があがり、部下達も王の機嫌の良さに安堵しているようだ。
 その日も夜遅くまで軍議を講じ、ラギスの眠る褥へ潜りこむ頃には、空が白み始めようとしていた。
 身体は疲弊しているが心は軽い。不思議なことだが、穏やかに眠るラギスを見ているだけで、疲労が和らいでいく。彼が不沈城グラン・ディオへきた当初は、毎晩のようにうなされていたが、最近ではその回数も減ってきた。穏やかな表情を見せるようになってきた。時には声をあげて笑うこともある。未だつがいを否定しているが、少しずつ関係は改善されてきている。
 シェスラは手を伸ばして、濃い無精髭の浮いた頬を、手の甲でそっと撫でた。薄く開いた唇に官能を覚えるが、今は傍にいるだけでいい。
 寝顔を見つめながら、先日の夜が思いだされた。
 まさか、ラギスの方から誘ってくれるとは思っていなかった。彼から声をかけてくれたことに、シェスラは自分でも驚くほどの喜びを感じていた。月狼になって、彼とどこまでも自由に駆けた時の爽快感は、なにものにも代えがたい。
 星空の下、月明かりを浴びて交わったことも……思いだすたびに身体が熱くなる。
 滾るような情欲だけではない。ラギスといると、長いこと無縁でいた、暖かく、穏やかな感覚を思いだすのだ。
 美しい山河が目の前に広がっていようとも、自由に、雄々しく駆けるラギスを見ていたい。彼だけを見つめていたい。黄金の瞳ほど、シェスラの心を掻き乱すものはないのだから。
「む……」
 ラギスが何か、よく判らぬ寝言を呟いた。シェスラは思わずほほえみ、硬い頬を撫で、浅黒い肌の胸に頬を押し当てた。全てが満ち足りていて、完璧だった。規則正しい鼓動の音を聞きながら、優しい眠りへと誘われていった。

 明け方、シェスラは耳をくすぐられる感覚に意識を呼び醒まされた。武骨な指が髪を梳いている――思わず笑いそうになり、寝ているふりを続けた。目を醒ましたことがばれたら、彼はすぐに手を引いてしまうだろう。
 ラギスはシェスラが寝ていると思って、耳を弄ったり、髪を撫でたりしている。どうやら彼は、シェスラの長い銀髪を気に入っているらしい。何かの拍子に触れると、指で梳いたり、指に巻きつけたりして遊ぶことがある。彼のそうした無意識の愛着が、シェスラは嬉しかった。
(こういうのも悪くはないな……)
 さっきまで、草原の夢を見ていた。夢のなかでも、目が覚めても傍にラギスがいる。彼は、寝台に散った銀髪の先をゆっくり撫でている。武骨な指とは思えぬほど優しい仕草で。
 とろりとした眠りに誘われていく……シェスラは微睡かけたが、耳の先を指で挟まれ、くすぐったさのあまり、ついその指を掴んでしまった。
「……こそばゆい」
 ラギスの緊張が肌に伝わってきた。シェスラが顔をあげると、金色の瞳はじっとシェスラを見つめていた。
「夢を見ていた。あの草原の夜……いい夢だった」
 シェスラは囁くようにいいながら、そっと手を伸ばし、ラギスの頬を撫でた。
「あんな風に自分を解放して自由に走ったのは、生まれて初めてだった」
 金色の眼差しが揺れる。
「……俺も子供の頃以来だった。月狼だというのに、草原を駆けることを永く忘れていたんだ」
 ラギスは少しばかり遠い目をした。奴隷剣闘士になってからは、獣化は他人に管理され、自分の意思では許されなかった。あんな風には、二度と駆けることはできないと思っていた。
「またいこう」
 シェスラは囁いた。ラギスは頷きかけ、不意に月光に浮かびあがる艶めかしい裸体を思いだした。凄まじい交歓が蘇りかけ、目を瞬いて追い払う。
「起こして悪かったな」
 ラギスが身体を起こすと、シェスラは敷布の上に置かれた彼の手の上に、自分の手を重ねた。
「どこへいく?」
「……その辺を、散歩してくる」
「また、ロキの所へいくつもりか?」
 押し黙るラギスを見て、シェスラは凪いでいた心が翳るのを感じた。ラギスは何かというとロキのところへいきたがる。二人の間には奴隷剣闘士としての強固な絆があり、それはつがいであるシェスラであっても、断つことは難しかった。
「いくな。ここにいろ」
 囁きながら武骨な手を掲げ、指の関節にそっと唇で触れてから手を離す。迷ったように視線を揺らすラギスを見て、シェスラは上半身を起こし、ラギスの首に腕を巻きつけて褥に押し倒した。
「おい」
「大人しく寝ろ」
「眠くないんだよ」
 ラギスは唸るようにいった。
「目を閉じているだけでも、身体は休まるものだ」
 シェスラは優しくラギスの頬を撫でると、顎のくぼみに唇を落とした。
「ラギス……」
 唇を触れあわせながら囁くと、ラギスは尖った耳を横に伏せた。彼のような巨躯の男に思うことではないのだろうが、そういった仕草を見る度にかわいいと思う。
 意外に引き締まった腰に腕を回しても、振り払おうとせずじっとしている。腕のなかで四肢の強張りが解けていくのを感じとり、シェスラも目を閉じた。
 目が覚めたら、すべきことはたくさんある。
 地方に放っていた斥候せっこうが戻ってくるだろうから、彼らの話を聞かなければならない。閲兵えっぺいをして、ネロアの編成を将校達と講じる。哨戒しょうかいと訓練、治水、税金、冬の備蓄の確認もある。
 だが、考えるのは起きてからにしよう……今は、ラギスの隣で眠っていたい。
 やがて寝入るラギスの鼓動を聞きながら、シェスラは明晰めいせきな思考回路に蓋をした。日々続く責務の幕間、束の間の休息……緩やかな眠りへと身を任せた。