夜は明けつつあった。
 遠くで小鳥が囀り、木立にされた曙光しょこうが、窓硝子から斜めに射しこんでいる。
 起きるにはまだ早いが、昨日もらったばかりの馬と早駆けしたい誘惑に抗えず、ラギスは褥の上からぱっと躰を起こした。
 顔を洗ったあと、寝台の傍に置いてある服を手にとる。
 広襟の肌着の上に胴衣を身に着け、黒いズボンを履いて、裾を膝下まである先拡がり型の鞣革なめしがわの深靴にたくしこむ。仕上げに腰帯をしめて、飾り紐を結び、剣をいた。
 身支度を整え、厩舎に向かうと、厩番が驚いたように脱帽して頭をさげた。
「お早うございます、ラギス様。随分とお早いお越こしで」
「俺の馬は乗れるか?」
「はい。すぐに」
 男は奥へひっこみ、赤革の馬勒ばろくについた金糸の房飾りを掴み、馬を連れてきた。
 美しい天鵞絨びろうどの毛並みを見て、ラギスは頬を緩めた。知性を感じさせる金緑の瞳が、値踏みするようにラギスを見つめている。
「お前の名前を考えたんだ。クィンと呼ぼう」
 金鍍金きんめっきを施された鞍に跨ると、クィンは軽く足踏みをして、体勢を整えた。
「いい子だ」
 ラギスが首すじを叩くと、耳をぴくっと動かし、尾を一つ振る。じっとしているが、背中に跨る男を値踏みしているように感じられた。
 軽い足取りで楼門へ向かうと、後ろから馬蹄の音が聞えてきた。振り向くと、矢筒を肩にかけたアレクセイがいた。
「お早うございます、ラギス様」
 彼は美しい鹿毛かげの牝馬に乗っていた。
「ああ……」
 戸惑ったように答えるラギスの隣に、アレクセイは轡を並べた。
「ご一緒してもよろしいでしょうか?」
 ラギスは少し躊躇った。
「馬は久しぶりだから、慣らそうと思っていたんだ」
「お供いたします」
「狩りにいくところじゃないのか?」
「いえ、我が大王きみから、ラギス様に馬術をお教えするように命じられております」
「そうか……なら、よろしく頼む」
 ラギスの言葉に、アレクセイは優しくほほえんだ。
「弓が得意らしいな。その装備はいつもか?」
 肩にかけている使いこまれた矢筒を見て、ラギスは訊ねた。
「はい。早朝に森へ入る時は、弓を持っていくようにしています」
 貴公子のような佇まいだが、その言葉には自信が感じられた。銀色の瞳は神秘的で、思慮深い理知の光を宿している。
「狩るところを見せてもらえるか?」
「もちろん、構いませんよ」
 二人は不沈城グラン・ディオの後方に拡がる森へ入った。城から八キロほど離れたあたり、にれの木立に隠れて、広くて草の生い茂った野原にいき当たった。
 頭上には刻一刻と明るくなっていく、青い空が広がっている。
「ここは良い狩場なんです」
 彼は堂に入った仕草で矢をつがえると、遥かな木立にとまっている、しぎに狙いを定めた。呼吸を止めて、静かに矢を放つ。
 矢は真っすぐに飛んでいき、枝の上で休んでいた鳥に命中した。木々はざわめき、重量のあるものが落下する音が聴こえた。熟練の腕前を目の当たりにし、ラギスは感心に目を瞠った。
「あの距離を仕留めたのか! やるなぁ、シェスラが褒めるわけだ」
 ラギスの賞賛に、アレクセイは面映ゆそうな微笑を浮かべた。
「ありがとうございます。おかげで、今朝は良い土産ができました」
「もしかして、食卓に並ぶ肉は、あんたが調達しているのか?」
 大真面目に訊ねるラギスを見て、アレクセイはおかしそうに笑った。
「それでは、私は山ほど捕まえないといけませんね」
「違うのか」
「城には家畜もいますし、外から買い入れもしていますよ」
「それもそうか。なら、捕った獲物はどうするんだ?」
「これも城で調理してもらいます。持ち運びが大変ですから、大きな獲物は捕らないようにしているんです。頼まれた時には、大猪や雷麒を狩ることもありますよ」
 ラギスが相槌を打った時、馬が不安そうに飛び跳ね、手綱を引っ張った。
「どうした?」
 ラギスは首筋を叩いて宥め、手綱をひきしめた。クィンはそれでも足を踏み鳴らし、鼻息が荒く、視線が落ち着かない。跳躍の手前のように、後ろ脚の筋肉が硬くふくれあがった。
「どう、どう」
 後ろ足で立ちあがるクィンをラギスは馬上で落ち着かせ、すぐに鞍から降りた。
「どこか痛めたか?」
 様子を見ていると、アレクセイも馬を下りて傍にやってきた。馬具の装着を確認しようと手を伸ばす。図らずも距離が近づいて、お互いにはっとなった。
「……紐の結び目があたって、痛かったのでしょう」
 アレクセイはなんでもない風を装って、馬具を調整した。クィンは具合を確認するように何度か踏み鳴らし、満足したように首を掲げた。
 ラギスは鞍に跨り、落ち着いた様子で手綱を捌いたが、心は乱れていた。あの夜の饗宴が思いだされる。あれは不幸な事故だったのだ。さっさと忘れた方がお互いの為だ――そういい聞かせた。
 城に戻り、厩舎に馬を預けたあと、部屋に引き返そうとするラギスをアレクセイは引き留めた。
「もしよければ、一緒に休憩室にいきませんか?」
 ラギスは驚いた。彼のいう休憩室とは、士官以上の階級に許された社交場である。
「せっかくだが、遠慮しておく」
「お疲れですか?」
「そうじゃないが、俺は正騎士だし、場違いだろう」
 アレクセイはまだしも、他の騎士達の気取った雰囲気は苦手だった。
「場違いだなんて。ラギス様は、我が大王きみの聖杯ではありませんか。階級を気にする必要は全くありませんよ」
「そうは思っていない奴の方が、大半だと思うぜ」
「不敬を働く者は私が許しません。実は、ラファエルがラギス様とお話しをしたいといっていまして」
「お話し? ラファエルが?」
 意外な思いでラギスは訊き返した。ラファエルは黄金の巻き毛と碧眼をもつ美しい青年で、アレクセイ達と一緒にいるところを何度か見かけたことがある。朗らかな笑い声は、さながら天使のようだった。ラギスとは、まともに口を利いたことすらないが、何を話すというのだろう?
「この時間なら、ちょうど寛いでいると思うのです。覗くだけでも、いってみませんか?」
 アレクセイは穏やかな声と表情でいった。
「だが……」
「私達と一緒にいれば、囲まれるようなこともありませんから」
 ラギスは返事に詰まった。そうまで熱心に誘われてしまっては、断る理由が見つからず、休憩室にいくことをやむなく承諾した。