月狼聖杯記

3章:魂の彷徨い 26


 夜になり、窓辺の椅子で醸造酒を煽っていると、部屋にシェスラがやってきた。ラギスが言葉を発する前に、対面の席に座る。

「私ももらおう」

 そういって、勝手に酒杯に注ぎ始めた。

「食事を食べなかったそうだな」

 優雅に酒杯を煽る姿を見ても、ラギスは何もいわなかった。

「具合はどうだ?」
「……俺をここから出せ」
「まだ早い。回復したら近衛に配属してやる」

 ラギスは相手の聴覚を疑うように、眉をひそめた。

「俺は城から出せっているんだ」
「私が城の外へ出る時は、ラギスも出ていけるぞ。一緒にな」
「ふざけるな。俺を城から出す気がないなら、剣闘士に戻せ」
「酔狂だな。殺し合いの日々に戻りたいのか?」
「てめェといるより遥かにマシだ」

 憎悪の視線を向けるラギスから、シェスラはそっと視線を逸らした。
 扉を叩く音に呼ばれて席を立つ。召使を部屋に入れさせず、自ら銀盆を受け取るとラギスの傍に戻ってきた。

「食べやすいものを用意させた。好きなものがあれば、口にいれるといい」

 卓に盆を乗せるシェスラを、ラギスは胡乱げに見つめた。

「……親切のつもりかよ」
「弱っているつがいに、食事を与えようとしているだけだ」
「番じゃねェ」
「食べたらどうだ?」

 そんな気分ではないと思ったが、旨そうな匂いを嗅いだ途端に、胃は猛烈に空腹を訴えてきた。
 あたたかな根菜の汁を口に含んだ瞬間、手が止まらなくなった。食事をするラギスを、シェスラは目を細めて見つめている。

「何見てんだよ」
「よく食べるなと思って」
「気分悪ィ、出ていけよ」

 身体の向きをずらして、シェスラの視線に背を向けたが、彼は出ていこうとしなかった。ラギスが食事を終えると、召使に卓を片づけさせ、数冊の本を持ってこさせた。

「退屈だろうと思って、本を見繕ってきた」

 飴色の皮表紙で綴じた立派な写本だ。中を捲ってみて、ラギスは戸惑った。
 その心もとない表情を見て、シェスラは首を傾げた。

「どうした?」
「……文字は読めねェ」

 遠い昔、母や兄に文字を習ったはずなのだが、長い奴隷生活を送る間に、教養はすたれてしまった。

「なら教えてやろう」

 なんでもないことのようにシェスラはいった。ラギスは驚いて彼の顔を見た。

「何?」
「読めないなら、学べばいい」
「……読める文字もある」

 素直に頷くのは気恥ずかしくて、ラギスはいいわけのようにつけ加えた。そうか、とシェスラは優しく頷く。
 丁寧で、温かみのある対応にラギスは戸惑った。
 疑問を捻じ伏せて、本に意識を注ぐ。絵の多い面白そうな本があり、なんとなく手にとってみた。

「……これは?」
「寺院の僧が描いているらしい。街で評判なので、取り寄せてみた」
「へぇ」
「読んでやろうか?」

 断らないラギスを見て、シェスラは絵と台詞について解説を始めた。じっと聞き入るラギスを見て、優しい月のように目を細める。

「何だよ?」
「……いや」

 穏やかな表情を浮かべるシェスラを見ていられず、ラギスは視線を再び本に落とした。
 文字を目で追いかけながら、酒瓶を煽る。
 召使が気を利かせて、本と一緒に酒と肴を持ってきたのだ。卓の上には、酒瓶や塩漬けにした木の実、砂糖漬けにされた果物が並べられている。
 ラギスは手を伸ばして、杏を一つ摘まんだ。口に入れた途端に、懐かしい、砂糖の優しい甘味が拡がる。

「そなたは判りやすいな」

 なんのことだ、とラギスが隣を見ると、シェスラは左右に揺れるラギスの尾を見つめていた。

「……悪いか」

 ラギスは照れ隠しにぶっきらぼうにいうと、尾の揺れをぴたりと止めた。

「いや、ちっとも。意外と甘いものが好きなんだな」
「……子供の頃は、砂糖づけの菓子が好きだった」
「そうか。なら、欠かさず部屋に用意させよう」

 シェスラは穏やかにいう。
 彼と日常会話が成立していることに、ラギスは気がついていなかった。ただ、懐かしい夜の団欒を思い出して、居心地の悪いような、くすぐったいような、よく判らない感情に心を乱されていた。




3章:魂の彷徨い 26


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