月狼聖杯記

3章:魂の彷徨い 30


 七日後、発情期の終わりと共に嵐がきた。
 初夏のうずたかい雲の向こうから、嵐雲らんうんが押しよせ、ドミナス・アロの街全体に覆い被さった。
 窓の外では、稲妻がきらめいている。
 耳をろうする雷鳴に睡眠を妨げられ、ラギスは窓辺で酒を煽っていた。
 の蒸留酒が喉を焦がす。だが、まだ酔えない。
 何度振り払っても、淫蕩な日々が脳裏をよぎる。
 散々啼かされ、蕩けさせられ、何度もシェスラの腕の中で果てた。情事のあともつがいのように寄り添い、朝を迎え、そのまま……乳首や性器を手と舌で愛撫され、溢れ出る霊液サクリアを何度も飲み干された。
 この先、発情期がくるたびにこうかと思うと、死にたくなる。
 こんなことなら、日夜闘技場で闘っている方が遥かにマシだ。
 欝々と思いふけりながら、部屋に充満する蘭の香りに気をとられた。
 今夜は窓を閉じているせいか、寝室に活けられた蘭が、いつになく馥郁たる香を放っている。その中に情事の残り香を嗅ぎ取った気がして、ぎくりとさせられた。
 今すぐ空気を入れ替えたくなり、紗をかきわけ、外に面した露台に出た。
 全身を滝のような雨に打たれる。
 季節は夏になろうとしているが、今夜は雨が降っていて肌寒く感じる。
 雨と共に、冷たい風が吹いて、ラギスは身体を震わせた。
 それでもこの場を離れようとは思えなかった。
 雨に混じって、もうすっかり馴染んでしまった、王の匂いに鼻孔が膨らんだ。目を閉じていても、すぐに判る。
「……濡れるぞ」
 目を閉じたまま、ラギスはいった。
「そなたこそ」
 囁くような声に瞳を開けると、シェスラは濡れるのも厭わずに、ラギスの隣に並んだ。
 雨に濡れて、白皙の美貌に雫がしたたる。無比の美しさに、ラギスは少なからず賞賛の念を抱いた。
 辟易する。
 たった今まで呪っていた相手に、束の間でも賞賛し、もっと見ていたいと思ってしまうことに。
 馬鹿馬鹿しい考えを捨てると、いつものようにぶっきらぼうに口を開いた。
「……何の用だ」
「ジリアンが心配していた。返事くらいしてやれ」
「ジリアン?」
「あの少年は、そなたに英雄崇拝を覚えているらしい」
 静かに驚くラギスを見て、気づいていなうのか? とシェスラは訊ねた。
「……崇拝しているのは、俺じゃなくてあんただろ」
「判っていないな……ジリアンが部屋を整えてくれた。中に入ろう」
「放っておけ」
「濡れそぼっているそなたを? ……できぬ」
 慎重に伸ばされた手が、ラギスの濡れた頬を包んだ。涙のように流れる雫を、親指でそっとぬぐう。
(……俺は、何でじっとしているんだ?)
 憎しみを抱いているはずなのに、しなやかな腕に抱きしめられて慰めを感じている。
 王の豹変ぶりも理解不能だが、ラギスの態度はそれ以上に意味不明だ。
「さぁ、中に入って温まろう。そなたの好きな、蒸留酒も用意してある」
 優しく背を押す腕に導かれ、ラギスは中へ入った。
 卓の上に、数種類の酒瓶と、ラギスの好きなつまみが置かれていた。ジリアンが用意してくたのだろう。
「座れ」
 特に何も考えず、ラギスは儒子を張ったひじ掛け椅子に腰を下ろした。
 シェスラは、ラギスの後ろに立つと、柔らかな麻布でラギスの耳や髪を拭き始めた。
「……何してる?」
「拭いている」
「そんなことはいわれなくとも判る」
「訊かれたから答えただけだ。濡れたままだと、風邪を引くぞ」
「自分はどうなんだ」
 シェスラの長い髪の先から、雫がぽたぽたと垂れて、絨毯に沁みをつくっている。
「放っておけば乾く」
「俺だってそうだ」
 ラギスは麻布を彼の手から取り上げると、シェスラの髪に投げつけた。
 人の髪は丁寧に拭こうとしたのに、自分の長い銀髪は、適当に拭いて後ろへはらった。
「……もう、あんたの相手をする気はない」
 ラギスは虚空を見つめたまま呟いた。
「私は強要したか? そなたの許しを得て、その身体に触れたはずだが?」
「よくも……」
 ラギスはシェスラを睨みつけた。
 何度も出ていけといったはずだ。それを無視して、部屋に留まったのは彼の方だ。ラギスが乱れる様を悦んで眺めていたくせに――喉までせりあがってきた文句を、どうにか呑みこんだ。
 苦々しく思いながら視線を逸らすと、卓に置いた手の上に、手を重ねられた。
「ッ」
 ぎょっとしてシェスラを見ると、彼は眉間に皺を寄せ、苦悩の滲んだ顔をしていた。
「……そなたを苦しめようと思って、抱いたわけではない。これは本当だ」
 なぜ苦しそうにいうのか判らず、ラギスは言葉に詰まった。何もいえずにいると、シェスラはゆっくり席を立った。
「よく休め。せめて夜は、安らかな眠りに癒されるように」
 目と目が合う。どうしたことか、水晶の瞳に労わりの色が浮かんでいる。
 数秒ほどラギスを見つめてから、シェスラは静かに部屋を出た。
 最近、こういうことが多い。
 ラギスに向けられる敬意に戸惑う。
(敬意? 王が俺に?)
 数ヶ月前からは考えられない事態だ。思い遣りを示される度に、毅然と跳ねのけられず、狼狽えてしまう。
 混乱する。
 感情の揺れは望ましくない――疑問を捻じ伏せ、考えることをやめて、ラギスは代わりに酒を煽った。




3章:魂の彷徨い 30


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