力の抜け落ちた躰を、シェスラは腕のなかに抱きとめた。
「ラギス!」
 意識は完全に落ちていて、瞼はぴくりとも動かない。急いで患部に手を当てて、癒しの霊気を送りこむ。
「誰か!」
 廊下に向かって誰何すいかを発すると、アレクセイとヴィシャスが飛びこんできた。血の海に横たわるラギスを見て、躰を強張らせる。
「アミラダを呼んで参れッ」
「ハッ」
 ヴィシャスが遣いに走り、アレクセイは清潔な布や湯を用意するよう召使に指示をだし始めた。
「しっかりしろ、ラギス! 聞こえるか?」
 唇からも指先からも血の気が失せていて、瞼は固く閉じられている。
 うっすら開いた唇から、幽かな息が漏れているが、消え入る灯のようにささやかだった。
 胸に拡がっていく絶望を捻じ伏せ、霊気を送りこむことに集中する。
「ラギス、目を開けろ」
 このまま目を開けないのでは――考えただけで、胸に鋭い痛みが走った。
「死んではならぬ!」
 シェスラは生まれて初めてといってもいい、氷のような恐怖に襲われていた。凍りついていく心を止められない。
「我が大王きみ
上上  部屋に入ってきたアミラダは、血の海と化した寝台を見て眉をひそめた。
「血が止まらぬ! どうすればいい!?」
 早口で問うと、アミラダは厳しい顔つきで患部を確認し、殆ど白に近い瞳でシェスラを見た。
「血が流れ過ぎたのです。魂が離れようとしている。心臓の上に手を置いて、霊気を送りこめますか?」
「判った」
 シェスラは手の位置をずらして、心臓の上に置いた。その傍らで、アミラダは患部に治癒のまじないを施している。大変な集中力を要するようで、皺の寄った額には、玉のような汗が滲んでいた。
「息をしろ……ラギス!」
 刻一刻と青褪めていくラギスの顔を見て、シェスラはいっそう背筋の寒くなるものを感じた。
 生命力の塊のような男が、力なく四肢を伸ばし、唇を薄く開いている。
(――神よ、レイール女神よ。ラギスと共にあれ、この者に加護を、慈悲を与えたまえ!)
 王は生まれて初めて、神の加護を祈った。
 永遠にも感じられる、絶望の時が流れる。
 唐突に、ラギスは呼吸を再開し、大きく息を吸いこんだ。
「ラギス!」
 意識は戻らないが、心臓は思いだしたように動き始め、胸は規則正しく上下している。
「手を離してはなりませぬ! そのまま、押さえていてくだされ」
「判った」
 心臓の上に手を置きながら、シェスラは胸が熱くなるのを感じた。絶望の闇に一条の光明が射しこんだようだった。
「彼が屈強な男で良かった。並みの者なら、とうにこときれていたでしょう」
 内臓の治癒術を施したあと、アミラダは針と糸をもってこさせ、外傷の縫合を始めた。
「……臓器は平気か? これは自ら腹に刃を突き立て、力任せに横に引いたのだ」
 シェスラの言葉にアミラダは重々しく頷いた。
「厳しい状況です。ただ、我が大王きみの御力もありますが、彼自身、尋常ではない回復力を具えております」
「では目を醒ますか?」
「彼に生きる意思があれば、恐らくは……時間はかかるかもしれません。生命力がある程度戻れば、自然と目を醒ますでしょう」
「そうか……」
 その言葉に縋る思いで、シェスラは深く息を吐いた。じっと問いかけるように見つめてくるアミラダと目があい、己の頬が濡れていることに気がついた。
(泣いている? この私が?)
 甲で頬を拭いながら、シェスラは困惑した。ラギスが息を吹き返した瞬間に、胸の奥底から、熱い塊がこみあげてきて、涙に変わったのだ。
「我が大王きみ……」
 様子をうかがっていたアレクセイも、案じるように膝をついた。
「……驚いたな」
 ラギスを見つめながら、シェスラは茫然と呟いた。
 最後の落涙は、恐らく十年以上も昔のことだ。母に別れを告げた日を最後に、涙を流したことはなかった。
「この者はなぜ、腹を刺したのですか?」
 アレクセイの問いに、シェスラは青褪めた唇を開いた。
「私を殺そうとして……できぬと知り……自害したのだ」
「なんと豪胆な……」
 そういって、アミラダは悼むように目を伏せた。力なくかぶりを振る。
「血を流しながら、私の顔を見て笑っていた。意表をつけたことが嬉しくて堪らないというように……信じられぬ」
 聖杯の支配に抗い、王であるシェスラに牙を剥いた。
 運命に挑戦した高潔な男。その不屈の魂を持つ男は、今、シェスラの腕のなかで青褪めた顔でいる。
 本当に目を醒ますのだろうか?
 腹の傷は致命傷に見えた。本当に、このまま霊気を注ぐだけで良いのだろうか?
(目を醒ます。ラギスならきっと……いや、必ずだ)
 強くいい聞かせ、シェスラは瞑目した。
 その夜から、ラギスは酷い高熱をだし、瀕死の状態は二晩続いた。