アッサラーム夜想曲
いってはならない言葉
百花繚乱の夜の公宮。
珍しく暖かな夜で、
火の灯された野外劇場で、光希はアースレイヤと共に上座で寛ぎ、左右に宮女を侍らせていた。
「さぁ、殿下、こちらもどうぞ」
「次はこちらですわ」
日頃は姿を見せない公宮の首級に、宮女達はここぞとばかりに群がっている。
「あ、どうもすみません！ ありがとうございます～」
と、赤い顔でにやけている光希は、既に泥酔の域に達している。
「……そろそろ、やめておきますか？」
饗宴に誘った張本人のアースレイヤは、苦笑気味に声をかけた。
「まだ、まだれす！」
呂律の回らない光希を見て、宮女達は目を輝かせた。
「まぁ、なんておかわいらしいのかしら」
「もっと喋ってくださいませ、殿下」
女達は、きゃっきゃっしながら光希に構いたがる。頬を指で押す者もいて、見かねたアースレイヤは光希の腕をとって、自分の膝にもたれさせた。
「まぁ、アースレイヤ皇太子ずるいですわ！ 殿下を独り占めして」
「そうですわ！」
「お前達、殿下で遊ぶのはおやめなさい。これ以上泥酔させたら、私はシャイターンに殺されかねませんよ」
アースレイヤは割と本気でいったが、女達は軽やかな笑い声をあげた。
「殿下にも、時にはわたくし達の癒しが必要なのですわ」
「そうですわ。あのように思いつめた顔をされて、おかわいそうに」
そう主張する女達の声には、媚びだけではない優しさが滲んでいて、アースレイヤは肩をすくめて反論を控えた。
（……まぁ、窮屈に思う瞬間があることは確かでしょうね）
神殿で鉢合わせた時の、光希の浮かない顔がアースレイヤの脳裏を過った。
冗談のつもりで宴に誘ったら、どういうわけか承諾したのだ。傍にいた護衛の神殿騎士は狼狽していたが、控えめな光希にしては珍しく、主張を押し通した。
「今夜はもう十分に羽目を外したでしょう。そろそろ彼を迎えにシャイターンがやってきますよ」
釘を刺したつもりが、女達はいっそう顔を輝かせた。
「まぁ、シャイターンがこちらに？」
「シャイターンもたまには、私達と遊んでくださればいいのに」
焦がれるような口調に、おやおや、とアースレイヤは流し目を送った。
「お前達は主を鞍替えするつもりですか？ 私よりシャイターの方が好みだと？」
途端に女達はうっとりと頬を染めた。中には、真っ赤になって俯く姫もいる。
彼等の戯れを、光希は微睡みの中で聞いていた。
酔いが回って思考がふわふわしているおかげで、日中に味わった心の痛みから、今は少しだけ遠ざかっていられる。
昼過ぎ――
光希は、工房前で知り合いの官吏達と立ち話をしていた。一人はアマハノフの部下で、公務でも何度か世話になっている男だ。彼の口から、アッサラームに興行にきていた劇団から、光希に招待状が送られていたことを聞かされた。初耳だと驚く光希に、彼は、ジュリアスが断ったのだと答えた。
面白そうな演目だっただけに、がっかりする光希を見て、次に公演がある時はジュリアスに訊いてみるといい、そう助言して男は立ち去った。
背中を見送ったあとで、次の公演を知っているか訊いてみようとあとを追い駆けたのだが、
「――無理もない。お一人では何もできないお方だから」
思わぬ言葉を耳にして足を止めた。
心臓がどきどきし始めて、顔が熱くなるのを感じたが、矜持を傷つけられた羞恥なのか、怒りなのか、判別はつかなかった。
ただ、声をかける勇気は萎んでしまい、足取り重く工房に戻った。手作業をしていても、耳の奥で彼の言葉が
（……傍から見ると、俺は一人では何もできないという印象なのかな……）
会話の前後を聞いていないから、憶測でしかない。
ただ、一度悪い方に考えてしまうと、負の感情を清算できず、午後はずっと苛まれる羽目に陥った。
こういう時、友人や同僚と気晴らしができたらいいのだが、光希にそういった行動は許されない。宮殿を出るには事前申請が必要で、最終的にジュリアスが認めてくれないと何もできないのだ。
そう考えると増々落ちこみ、夜休の鐘が鳴っても直帰する気分になれず、神殿に寄り道をした。
（一人じゃ何もできない、か……彼のいう通りだな。子供でもないのに、俺はジュリがいないと何もできないんだ）
祭壇前に跪き、欝々としているところへアースレイヤが現れたのだった。
彼には感謝しなければならないだろう。光希の沈んだ雰囲気を察して、余計な詮索はせず、ただ賑やかで華やかな饗宴に連れてきてくれた。
宮女達も周囲に侍り、扇で風を送ったり、ひざ掛けをかけたりと細やかに気を配ってくれる。
（……ジュリは怒るかな）
この事態を見れば、間違いなく呆れるだろう。だが、たまには彼の預かり知らぬ行動をとってみたかった。
遠のく意識の向こうで、怒ったようなジュリアスの声を聞いた気がした。
ジュリアスが饗宴の場で目にした光景は、はっきりいって最悪だった。光希はぐったりとアースレイヤの膝にもたれ、周囲に侍る宮女達は、赤い顔をした彼に扇で風を送っていた。
無言で近づいてくるジュリアスを見て、アースレイヤは楽しそうに笑った。
「こんばんは、シャイターン」
「光希を返してください」
ジュリアスは、低く、威嚇するような声でいった。アースレイヤは上品にほほえむと、どうぞというように両手をあげてみせた。
「少し飲み過ぎたようだから、休ませてあげた方がいいですよ……ほらほら、そんな怖い顔で迫ったら、嫌われてしまいますよ」
「余計なお世話です。こんなになるまで飲ませたのは、貴方でしょう」
ジュリアスは忌々しげにいったが、アースレイヤは悪びれもなく頷いた。
「否定はしませんが、殿下も進んで煽っていましたよ。何があったのか知りませんけれど、随分と落ちこんでいたようでしたよ」
助言めいた口調だったが、ジュリアスは無視した。光希を腕に抱きとると、最低限の礼を失さない程度に会釈をして背を向けた。
女達は残念そうな顔をしていたが、ジュリアスは一瞥も向けずに、光希をその場から連れ出した。
意識が戻った時、光希はジュリアスの腕に抱かれて、邸の階段を上っている最中だった。
「……目が醒めましたか？」
ほっとしたように声をかけられ、光希は頭を押さえて呻いた。
「うん……運んでくれたの？」
「はい。全く、貴方は酒に強くないのに、こんなにぐったりするまで飲むなんて」
少し怒ったようにいうジュリアスを、光希はばつの悪い思いで見つめた。
「……ごめん」
「らしくありませんね。今夜はどうしたのですか？」
「……」
光希は沈黙を貫いた。重々しい空気のまま寝室に入ると、そっと寝台の上におろされた。水の入った杯を渡され、光希は無言で受け取った。飲み干すと、気分は少しだけ良くなった。
「……ありがとう」
「どういたしまして。それで、どうしてアースレイヤについていったのですか？」
表情を曇らせる光希を見て、ジュリアスはその場に膝をついて目線をあわせた。
「光希？」
「……劇団の招待、ジュリが断ったんだって？ いってくれたら良かったのに……僕は観にいきたかった」
別の質問を投げると、ジュリアスは怪訝そうな顔をした。
「劇団？」
「アッサラームに興行にきていたんでしょ？ 僕も招待されていたと聞いたよ」
「ああ……確かに断りましたよ。予定が空けられそうにありませんでしたから」
「ジュリのでしょ？ 僕は一人でもいけるよ」
「そうはいっても、正式に招待を受けるなら準備が必要ですよ。注目のある場所に、貴方を一人でいかせるのも心配ですし」
「ルスタムも護衛親衛隊もいてくれるし、僕の警護は問題ないはずだよ」
ジュリアスは少し困った顔をした。
「そんなに観にいきたかったのですか？ 先日も歌劇の招待がきていましたが、ちっとも興味を示しませんでしたよね」
「あれは建国神話の歌劇で、寝てしまいそうだったから。でも今度は、冒険物語で面白そうだと思ったの」
「判りました。次は優先して予定を空けますね」
「だから、どうして一緒じゃないといけないの？ 僕は一人でもいけるよ」
「貴方が大切だからです」
「ジュリは過保護すぎると思う」
「いけませんか？」
光希の胸中は複雑だった。彼の案じる気持ちは判るし、嬉しいとも思う。光希の公務をジュリアスが気に懸けるのは当然で、彼の意見にはいつだって耳を傾けるつもりでいる。だが釈然としない。
不服そうに沈黙する光希を見て、ジュリアスはため息をついた。
「それが原因で、貴方はアースレイの誘いに乗ったのですか？」
「……まぁ、大体のところは」
「そう……判りました。今度招待状が届いたら、先ず光希に聞きますね」
「……うん」
浮かない顔をしている光希を、ジュリアスは抱き寄せようとする。苛立ちを払拭できず、光希は身体を引いて抱擁を拒んだ。
「光希？」
「僕はジュリのおまけじゃない」
「おまけ？」
戸惑ったようにいう美貌を、光希は強い眼差しで睨んだ。
「どうして、逐一ジュリの許可が必要なの？ ジュリが駄目といったら、僕は一歩も外へ出られないの？」
「すみません、不自由に感じることもあると思いますが――」
再び抱き寄せられそうになり、光希は手を振って抗った。青い瞳を見据えて、早口にいう。
「我慢しろって？ ジュリといると、僕は何もできないんだね」
ジュリアスは口を閉ざし、和解の兆候を探したが、怒りに燃える瞳を見て息を吐いた。
「光希、何をそんなに怒っているのですか？」
「ッ」
光希は言葉に詰まった。日中の件は胸に
「……時々、何もかも嫌になる。一人になりたい」
「貴方が落ち着くのなら、今夜は一人にさせてあげましょうか？」
「その方がずっと楽だ。いっそ、別れた方がいいのかな」
感情が昂り、いってはならない言葉が飛び出した。ジュリアスの凍りついた顔を見てすぐに後悔したが、もう遅い。
「光希……」
怒り。衝撃。狼狽――様々な感情がジュリアスの顔を過った。
部屋の温度がぐっと下がる。本能的な恐怖から、光希は腰を浮かしかけたが、ジュリアスがすがりつく方が早かった。有無をいわさぬ力で光希の腰にしがみつき、膝に顔をうずめる。
「……そんなことをいわないでください。貴方をここまで怒らせるとは思っていませんでした。どうか許してください」
ジュリアスはくぐもった声で囁いた。彼は、目が眩んで、世界が砕け散るような感覚に包まれていた。
沈黙。
誰もが認める砂漠の英雄が、光希の前に跪き、項垂れて、完全に心を明け渡している。
その姿を見て、光希の怒りはどこかへ消えた。じわじわと、癇癪を起したことへの羞恥が胸にこみあげた。
「……僕もごめんなさい」
金髪に指を挿し入れると、ジュリアスはゆっくり顔をあげた。絶望の滲んだ顔を見て、光希の胸に罪悪感がどっと湧きあがった。八つ当たり気味に投げた言葉が、一瞬にして、彼をここまで打ちのめしてしまったのだ。
ジュリアスは光希の顔をしばらくうかがい、確かな愛情が浮いていることを見て、全身の緊張を緩めた。感謝を捧げるように、膝に置かれた手に唇を押し当てる。何度か指先に口づける行為を繰り返してから、顔をあげた。
「心臓が止まるかと思いました」
「ごめんなさい……」
「いえ、光希が謝ることはありません。勝手に断ってしまった、私がいけなかったのです」
「……でも、僕もいいすぎたから」
光希は悔いるように呟いた。
「やり直す機会をください。貴方の気に入りそうな演劇を探してきます。それとも、他にいきたいところがありますか？」
「……探してくれるの？」
「はい」
「……じゃあ、お願い」
ジュリアスは安堵したようにほほえむと、光希の頬を両手で包んで唇を重ねた。
冷気は失せて、暖かな風と柔らかい星明りに包まれる。
優しく慈しむようなキスに、光希はそのまま自分が溶けてしまう気がした。
少し顔を離したあとに、ジュリアスは不服そうに光希を見つめた。
「それにしても、この甘ったるい匂いときたら……やっぱり、私を恐怖させた責任をとってもらいましょうか」
「責任？」
「私が綺麗に洗ってあげます」
上品な笑みで傲慢にジュリアスはいった。問いかけでも、誘いでもなく、命令である。
光希に拒否権はなかった。問答無用で風呂へ連れていかれ、彼の気が済むまで、身体の隅々まで現れる羽目になるのだった。
尚、この一件には後日談がある。
ジュリアスは光希の希望通りに、大衆の間で人気の演劇に、お忍びで連れていった。
その数日後、光希は例の官吏と廊下でばったり鉢合わせた。身構える光希に、彼は満面の笑みでこういった。
「聞きましたよ、殿下。先日シャイターンとお出かけになられたそうですね。やぁ、良かった！ 今度は劇を観ることが叶いましたね！」
てらいのない笑みを光希は訝しんだが、彼と話すうちに、己の勘違いを悟った。
“一人では何もできない”
泥酔の引き金となったこの言葉の真意は、ジュリアスの深い寵愛により、一人では自由に街を回遊するわけにもいかない……という気遣いの言葉だったのだ。
何事も早とちりをしてはいけない――光希は反省するのだった。