メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

2章:エステリ・ヴァラモン海賊団 - 5 -


 航海一日目は、始終オリバーと行動を共にした。
 夜直を終えて、班の皆と一緒に船室デッキに帰ろうとしたら、甲板でヴィヴィアンに呼び止められた。

「ティカ、こっちにおいで」

「アイ」

 彼の傍へ駆け寄ろうとし……ふと後ろを振り返ると、昇降口から顔を覗かせたオリバーが、行ってらっしゃい、とひらひら手を振っていた。
 なぜか、昨日よりも今日の方が、ヴィヴィアンに対して緊張する。
 船長室キャプテンズデッキに入ると、ヴィヴィアンは革張りの肘掛椅子に腰かけ、優雅にワインを飲み始めた。ティカは手を洗ってくるように指示され、洗面台に駆け込んだ。
 美しい大理石の洗面台で、タール――黒色の粘性油――や鉄錆に汚れた手を石鹸で綺麗に洗うと、爽やかな檸檬レモンの香りに包まれた。
 いい匂いの手を嗅ぎながらヴィヴィアンの前に座ると、ワインを勧められた。遠慮すると、今度は林檎ジュースをグラスに注いでくれる。

「お疲れ様。見習い水夫、どうだった?」

「楽しかったです。もやい結びが全然できなかったけど……」

 夜直の合間にオリバーは縄結びを教えてくれたのだが、ティカには至難の業だった。船乗りたる者、ロープの扱いには精通しなくてはいけないらしいが、前途多難である。

「頑張りな」

 難しい顔のティカを見て、ヴィヴィアンは楽しそうに笑った。

「アイ。あの……帆柱マスト昇降の指示は、無限幻海に備えて、特訓ですか?」

 ドキドキしながら尋ねると、ヴィヴィアンはすぐに「そうだよ」と肯定してくれた。
 ということはやはり、彼は本当にティカを、無限幻海に連れて行く気があるのだ。むくむくとやる気が湧いてきた。明日も朝から当直だが頑張ろう。

「あの、キャプテン。僕、船室に戻ってもいいですか?」

「戻りたいの?」

「もう眠くて……明日も当直あるし」

「ここで寝たらいいよ。時間になったら起こしてあげる」

「え?」

「この間、ティカと少し離れている間に、羅針盤が止まったからね。夜はなるべく近くにいたいんだ」

「今は動いていますか?」

「うん。動いているよ」

 今動いているのなら、平気ではないだろうか……そんなティカの心を読んだように、ヴィヴィアンは言葉を続けた。

「この前みたいに、寝ている間に止まるかもしれないだろう? その度、俺にやかましく起こされるのと、この部屋で優雅な眠りについているのどっちがいい?」

「優雅な眠りがいいです」

「よし」

「そういえば、キャプテン、航海契約について教えてもらったんですけど……」

 ヴィヴィアンは微笑んだ。

「うん。文字書けないって言ってたから、代わりに出しておいたよ」

「ありがとうございます」

「……どういたしまして。さて、一日頑張ったティカにご褒美をあげよう」

 ヴィヴィアンはいい香りのするサシェを、幾つかティカの前に広げてみせた。白や生成りのレース袋に包まれた、見た目にも美しいサシェだ。

「枕元に置くといい。素敵な夢を見られるよ」

 ティカはヴィヴィアンの手に顔を寄せると、馥郁ふくいくたる香りに瞳を輝かせた。檸檬、薔薇、ラベンダー、カモミール……どれも素晴らしい香りがする。

「いい匂い……」

「好きなのを、どうぞ」

「ありがとうございます! じゃあ、これ……プラムの香りに似てる」

「プラムが好きなの? 初めて会った時も齧ってたよね」

「大好きです」

 プラムはサーシャの好物だが、ティカの好物でもある。

「じゃあ今度、プラムの香りのサシェをあげるよ」

「本当!?」

「うん」

「ありがとうございます!」

 ティカが満面の笑みで礼を口にすると、ヴィヴィアンは優しく微笑んだ。
 ハンモックに寝そべると、早速、枕元にサシェを置いた。なんていい香りなのだろう。彼の言う通りだ。素敵な夢を見られる気がする……
 ヴィヴィアンはティカの髪を軽く撫でた後、明りを遮るように天井から吊るした紗を下ろした。

「キャプテンは、寝ないのですか?」

「もう少し起きてるよ。眩しい?」

 ティカはすぐに首を振った。どこでも眠れる自信があるし、今日は特に疲れているから、三秒で眠れそうだ。それに紗を下ろしたおかげで、視界は仄暗い。

「お休み、ティカ」

「お休みなさい、キャプテン……」

 少し離れた所から紙をめくる音、さらさらと筆を走らせる音を聞きながら、ティカは瞬く間に眠りに落ちていった。




2章:エステリ・ヴァラモン海賊団 - 5 -


prev index next