航海一日目は、始終オリバーと行動を共にした。夜直を終えて、班の皆と一緒に船室デッキに帰ろうとしたら、甲板でヴィヴィアンに呼び止められた。
「ティカ、こっちにおいで」
「アイ」
 ティカは彼の傍へ駆け寄ろうとし、思いだしたようにオリバーを振り返った。昇降口から顔を覗かせているオリバーは、いってらっしゃいというように、手を振っている。ティカは頷き返し、今度こそヴィヴィアンの傍へ駆け寄った。
「初日お疲れさま。どうだった?」
 ヴィヴィアンに見つめられて、ティカは緊張すると共に高揚感を覚えた。なぜか、昨日よりも今日の方が、ヴィヴィアンに対して緊張する。
「えっと、オリバーが、色々教えてくれました」
「そう。最初は大変だと思うけれど、何事も経験だよ」
 頭を無造作に撫でられ、ティカは俯き、はにかんだ。
 船長室キャプテンズデッキに入ると、ヴィヴィアンは革張りの肘掛椅子に腰かけ、優雅に葡萄酒を飲み始めた。ティカは手を洗ってくるように指示され、洗面台に駆けこんだ。
 美しい大理石の洗面台で、タール――黒色の粘性油――や鉄錆に汚れた手を石鹸で綺麗に洗うと、爽やかな檸檬レモンの香りに包まれた。
「手を洗ってきました」
 部屋に戻り、直立で告げるティカに、ヴィヴィアンは優雅な仕草で席をすすめた。
「葡萄酒を飲むかい?」
「いえ、あ……」
 恐縮するティカに、ヴィヴィアンは林檎ジュースをグラスに注ぎ、さしだした。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。今日はお疲れさま」
 そういって彼は、グラスをかちんとぶつけてくる。ティカもぎこちなくグラスを傾けて、乾杯に応えた。
「見習い水夫はどう?」 
「楽しくて、難しいです。僕、もやい結びが全然できなくて……」
 夜直の合間にオリバーは縄結びを教えてくれたのだが、ティカには至難の業だった。船乗りたる者、ロープの扱いには精通しなくてはいけないらしいが、前途多難である。
「まあ、頑張りな」
 ヴィヴィアンは楽しそうに笑っている。
「アイ……あの、帆柱マスト昇降の指示は、無限幻海に備えて、特訓ですか?」
 うかがうように訊ねると、そうだよ、とヴィヴィアンは頷いた。ということはやはり、彼はティカを無限幻海に連れていくつもりなのだ。
 むくむくとやる気が湧いてきて、ティカは、明日も朝から当直だが頑張ろうという気持ちになった。
「あの、キャプテン」
「ん?」
「船室に戻っても良いでしょうか?」
「戻りたいの?」
 意外そうに訊かれ、ティカは戸惑った。
「もう眠くて……それに、明日も当直あるし」
「ここで寝たらいいよ。時間になったら起こしてあげる」
「え?」
「この間、ティカと少し離れている間に、羅針盤が止まったからね。夜はなるべく近くにいたいんだ」
「今は動いていますか?」
「うん。動いているよ」
 今動いているのなら、平気ではないだろうか……そんなティカの心を読んだように、ヴィヴィアンは言葉を続けた。
「この前みたいに、寝ている間に止まるかもしれないだろう? その度にやかましく起こされるのと、この部屋でぐっすり眠るのと、どっちがいい?」
「ぐっすり眠る方がいいです」
「だろう?」
 ヴィヴィアンはもっともらしく頷き、ティカも納得して座り直した。
「ところでキャプテン、航海契約について聞きました。サインしたって……」
 ヴィヴィアンはこの上なく美しい、それでいて胡散臭い微笑を浮かべた。
「ああ、文字は書けないといっていたから、代わりにだしておいたよ」
「ありがとうございますっ」
 素直に礼を口にするティカをじっと見つめていたヴィヴィアンは、ふと思い立ったように席を立ち、机の上に置いてある袋を手にもって戻ってきた。
「今日一日頑張ったご褒美をあげよう」
 そういって彼は、いい香りのするサシェを幾つかティカの前に広げてみせた。白や生成りのレース袋に包まれて、見た目にも美しいサシェだ。
「わぁ」
「枕元に置くといい。素敵な夢を見られるよ」
 ティカはヴィヴィアンの手に顔を寄せると、馥郁ふくいくたる香りに瞳を輝かせた。檸檬、薔薇、ラベンダー、カモミール……どれも素晴らしい香りがする。
「いい匂いがする」
「どれでも、好きなのをどうぞ」
「ありがとうございます! じゃあ、これ……プラムの香りに似てる」
 ヴィヴィアンはほほえんだ。
「プラムが好きなの? 初めて会った時も齧ってたよね」
「大好きです」
 プラムはサーシャの好物だが、ティカの好物でもある。
「じゃあ今度、プラムの香りのサシェをあげるよ」
「本当!?」
「うん」
「ありがとうございます!」
 ティカが満面の笑みでいうと、ヴィヴィアンも釣られたように笑顔になった。いそいそとハンモックに向かっていくティカの背中を、穏やかな眼差しで見下ろしながら、ついていく。
 ティカはハンモックに寝そべると、早速、枕元にサシェを置いた。なんていい香りなのだろう。ヴィヴィアンのいう通り、素敵な夢を見られる気がする。
 ヴィヴィアンはティカの髪を軽く撫でたあと、明りを遮るように天井から吊るした紗をおろした。
「キャプテンは、寝ないのですか?」
「もう少し起きてるよ。眩しい?」
 ティカは首を横に振った。紗をおろしたおかげで、視界は仄暗い。それでなくとも普段からどこでも眠れる自信があるし、今日は特に疲れているから、三秒で眠れそうだ。
「お休み、ティカ」
 ヴィヴィアンが紗の向こうから囁いた。
「お休みなさい、キャプテン……」
 少し離れた所から紙をめくる音、さらさらと筆を走らせる音を聴きながら、ティカは瞬く間に眠りに落ちていった。