メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

1章:出会いと出航 - 7 -


 ヴィヴィアンは、とてもクリーンなバスルームに案内してくれた。入り口には、黄色いマーガレットの植木鉢と、涼しげなパーム・ツリーの鉢が置かれている。
 レースをめくると、大理石の張られた豪華な洗面台と、指紋や歪み一つない大きな鏡がある。
 奥には硝子窓の扉が一つあり、鈍色の取っ手を回すと浴室に繋がっていた。
 中は美しい硝子のタイル貼りで、傷はおろか染み一つ無い。ティカが足を踏み入れただけで、汚してしまいそうだ……

「こらこら、逃げるんじゃない」

 恐れ多くて、浴室から出ようとしたティカの襟を、ヴィヴィアンはぐいと引っ張った。首がしまって苦しい。堪らず咳き込むと、慰めるように頭を撫でられた。

「十四にしては、言動が幼いよね。まぁ、いいけど。ティカ、すごく汚れているんだよ。今のティカに、これ以上触るのはご免だ。判ったら、今すぐ身体を洗え」

「ア、アイ、キャプテン!」

 大人しく素っ裸になって浴室に飛び込むと、彼は満足そうに微笑んだ。湯の張り方、出し方を親切に教えてくれる。

「暖かい! すごい……お湯が出てくる」

「ふふふ、アンティークな四檣よんしょうバーク型帆船と見せかけた、違法すれすれの魔導改造船だからね。ヘルジャッジ号はバビロンも唸る、現代技術のすいだよ」

 何を言っているのか、まるで判らなかったけれど、この船の凄さは何となく伝わってきた。

「身体を洗うために、お湯を使っていいんですか? 船の上なのに……」

「いいよ。水に関しては半年分の備蓄があるから。とはいえ、こんな船うちだけだから。船乗りの心得として、水は大切に使いな」

「アイ、キャプテン」

「ここに着替えを置いておくよ。上がったら着替えて出ておいで」

「ありがとうございます……」

 一人になると、改めてバスルームを見渡して頬を引きつらせた。足元をみれば、泥と垢で早速タイルを汚している。綺麗になるには、時間がかかりそうだ。

「よし、頑張るぞ……」

 孤児院にいた時は、共同浴場で十五分の間に、何もかも洗い終えなければならなかった。あそこでは、ごわごわしたタワシと、固形の石鹸を使っていたが、ここにはそれらしきものが一つも見当たらない。
 いい香りのする硝子や陶器のボトルなら、幾つもあるけれど……
 陳列した真鍮の小箱をパカパカと開けて、ようやく石鹸らしきものを見つけた。見たこともないクリーム色で、美味しそうな蜂蜜の香りがするが、擦ったらちゃんと泡立った。
 叩きつけるような嵐に打たれていたから、汚れなんて大してないだろうと思ったけれど違った。身体を湯で流すたびに、黒く濁った汚水が流れていく。
 何ていい香りなのだろう……サーシャにも使わせてあげたい。
 安らぎに包まれながら、しんみりとサーシャを想った。
 たった二十四時間の間に、何といろんなことが起きたことか。
 十年以上過ごした孤児院の生活を、惜しいとは欠片も思わないけれど、サーシャとの別れを想うと、今も胸が張り裂けそうなほど軋む。
 彼女が生きていれば、一緒にヘルジャッジ号に乗れたかもしれないのに……
 そうしたら、どんなに良かったろう。
 サーシャの発熱は七日も続き、五日目を越えたあたりから、大人達はサーシャを救うことを諦めてしまった。
 静かな病室に移されてから、最後まで彼女の枕元に張りついていたのはティカだけだ。
 今頃、幸福館では彼女の弔いの準備をしているだろう。皆の人気者だったから、子供達も泣いているはずだ……

“……幸福館には二度と戻らないで”

 サーシャの忠告が耳朶の奥に蘇る。
 頭から湯をかぶり、泡も垢も頬を伝う涙も、何もかも洗い流した。
 すっかり身綺麗になって外へ出ると、用意された清潔な服――上は柔らかい白の木綿のシャツ、下は細身の焦げ茶色のズボンに着替えた。ご丁寧にバックルのついたブーツまである。

「キャプテン、着替えました……」

 レースを捲り部屋に戻ると、青いクロスのかけられたサロン・セットの猫脚テーブルに、美しい銀食器やグラスがセットされていた。

「さぁ座って。ティカの門出に祝杯を上げよう」

 優雅にワインを飲んでいたヴィヴィアンは、優しく微笑んだ。信じられないような待遇に、ティカの胸は締め付けられた。

「どうしたの? 元気ないね」

 ぽろぽろと涙を零すティカを見て、ヴィヴィアンは軽く眼を瞠った。

「サーシャは死んじゃったのに、僕は綺麗な服を着て、ご馳走を食べれるなんて……どうして、こんなに不公平なんだろう!」

「サーシャか。ティカの大切な子なんだね」

「僕と違って、文字が読めるし賢いんです! それに優しくて……っ……皆が僕を笑っても、サーシャだけは絶対に笑わなかった……っ」

「どうして笑われるの?」

「とろくて、不器用だから。それに、肌が茶色いから……その、キャプテンはとても綺麗だけど、僕は、顔中そばかすだらけで……」

 俯いて爪先を見つめていると、ヴィヴィアンの立ち上る気配がした。彼は傍までやってくると、涙に濡れたティカの頬を両手で包み込んだ。

「そんなもの、欠点だと思わなければいい。星が瞬いているみたいで、チャーミングじゃない」

「……」

「ここは世界の寄港地だよ? いろんな肌の船乗りが子供をつくって行くんだから、肌の茶色い子なんてそこら中にいたろ? 気にしてどうする。俺だって、うちの船員だってそうだ」

「はい……」

 確かに、ここへ着いてからいろんな人を見かけた。波止場で釣りをしていた子供も、強面のサディールやオリバーも黒い肌をしている。

「――いいか、死んだ者を想うなら、顔を上げてしっかり立ちな。泣いたって腹が空くだけだ。いつでもご馳走を食べれるとも限らないんだ。子供が遠慮してどうする。しっかり食べて、力をつけて、サーシャの分まで精一杯生きるんだ。男がそう簡単に泣くんじゃない」

「アイ……ッ!」

 大きな手が、ティカの濡れた髪をくしゃくしゃに掻きまわした。サーシャがするみたいに――
 涙や鼻水を垂れ流したまま、ぐしゃぐしゃの顔で微笑むと、汚いなぁ! とヴィヴィアンは笑いながら、清潔なタオルで顔を拭いてくれた。

「よし! 昼食にしよう」

 ヴィヴィアンが銀の鈴を鳴らすと、すぐに背の高い無愛想な男が、銀のカートを引いて部屋に入ってきた。まるで部屋の外で待機していたようなタイミングの良さだ。

「彼はギー、この船の料理長を務めてる。ギー、ティカだよ」

 男は、硝子玉のような赤目でじろりとティカを睨んだ。ぺこりとティカが会釈すると、どうでも良さそうに視線を逸らした。

「愛想はないが、腕は確かだ。新鮮な食材を仕入れたばかりだし、味の保障はするよ、さぁ、食べよう」

 ティカは泣き笑いを浮かべた。
 こんな高級な料理は見たことがない。透けそうなほど白い、イカのスライス。エビや貝に、茹でたじゃが芋を添えた海の幸のサラダ。湯気の立つ、小エビをあえたパスタ。香ばしいスズキのグリル。
 触れたら折れそうな薄いグラスには、辛口の白ワイン、ガス入りのミネラル・ウォーターが注がれている。




1章:出会いと出航 - 7 -


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