メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

1章:出会いと出航 - 2 -


 明け方、サーシャはぴくりとも動かなくなった。

「サーシャ……ッ」

 怖かった。眼を開けて欲しくて何度も肩を揺すったけれど、サーシャは眼を覚まさなかった。
 胸が痛い。悲しみに押し潰されてしまいそうだ。サーシャは世界の全てだったのに……どうして、ティカを置いて行ってしまったのか。
 いっそ、一緒に連れて行ってくれたら良かったのに!
 ティカはしばらく泣いていたが、そよ……とうなじを風が撫でると、勢いよく顔を上げて薄暗い病室を見渡した。

「サーシャ!」

 そこにいるのなら、返事をしてほしい。風だけじゃ判らない。
 静まり返った病室で、サーシャの繰り返し聞かせた言葉が、耳朶の奥で正確に蘇った。

“ねぇ、ティカ。私ずっと一緒にいるわ。ティカが瞳に映すものを、私も風になって見る。そよ風が吹いたら、私を探して。きっと傍にいるから……”

 見えない手に引かれるようにして、ティカはゆらりと立ち上った。潤んだ眼差しでサーシャを見下ろし、苦しそうに顔を歪める。

“いい? ティカ、海を見に行こう。歩道に沿って真っ直ぐ降りて行けば、パージ・トゥランに出るから。海の宝石と呼ばれるくらい美しい港街よ。ティカの足なら、きっとあっという間よ”

 こんなにも傍を離れ難いのに……胸が張り裂けそうなほど辛いのに、足は勝手に病室の扉に向かった。

“水筒とビスケットを持って、夜明け前にここを出て行くのよ”

 誰もいない食堂にこっそり忍び込むと、水筒とビスケットを持ち出して、斜め掛けの大きな麻袋にしまいこんだ。持って行くものは、それだけだった。

“幸福館には二度と戻らないで!”

 サーシャ。彼女と過ごした思い出だけを胸の奥にしまって、勢いよく外へ飛び出した。

「サーシャ! サーシャ! サーシャ……ッ!」

 叩きつけるような雨に向かって、声の限りに叫んだ。慟哭どうこくは、嵐の音にかき消された――

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 ティカはガリガリの痩せっぽちで、背も小さいけれど、足だけはとことん速かった。人並み以上に持久力もある。嵐にも負けず、夢中で山道を駆け下りた。
 陽がすっかり昇り、昼を過ぎた頃。
 叩きつけるような雨は止んだ。鬱蒼うっそうとした茂みは途切れ、彼方に空と海の境界線が見えた。
 水平線だ。
 疲れも忘れて、ティカは素晴らしい光景に見入った。
 薄暗い空の下でも判る、エメラルド・グリーンの凪いだ海。ビビットカラーの草花、色とりどりの民家が軒を並べ、合間には背の高いヤシの木、美しい紫色の花、ジャカランダの木々が色を添えている。
 サーシャの話していた“海の宝石”と呼ばれる、美しい港街だ。
 何て綺麗なのだろう……
 灰色ばかりの幸福館とはまるで違う、色彩に富み、目移りするくらい賑々しい。
 港には大小様々な帆船が帆を畳んで停泊している。
 商用の木造大帆船、小型の機帆船、強そうな護衛船、力のありそうなサルベージ船……あらゆる船が係留されている。不気味な黒艶を放つ、海賊船までも。
 ずば抜けて視力のいいティカは、遥か彼方、帆柱マストの天辺で揺れる海賊旗ジョリー・ロジャーまでしっかり見えた。
 天秤に乗った、髑髏とダイヤモンド――間違いない、海賊船“ヘルジャッジ号”だ!
 感動の余り、身体が震えた。海を見たことなければ、海賊船を見たこともない。
 王都パージ・トゥランは世界有数の寄港地だけれど、泣く子も黙るロアノス海軍基地があるから、海賊船だけは寄りつかないと思っていた。サーシャが言うには、水と油の関係だから。
 しかし、あれはどう見ても海賊船だ。
 それも無限海に名を轟かせる、海賊の中の海賊、エステリ・ヴァラモン海賊団を率いる――

「すごいや! キャプテン・ヴィヴィアンの乗るヘルジャッジ号!」

 内港へ行けと散々釘を刺したサーシャの言葉も忘れて、ティカはパージ外港、あらゆる船が泊まる波止場に向かって、鉄砲玉のように駆け出した。
 期待と興奮で胸をドキドキさせながら、果たして海賊船とはどんなものかしらと、ティカは想像を膨らませた。
 嵐が過ぎ去ったばかりだというのに、港街は活気づいていた。
 沖へ繰り出す猟師達、荷積みする船乗り達、彼等を相手に商売する露天商達、大きな荷物を人力の荷車や、年季の入った自動車がせわしなく運んでいく。
 いろんな匂いがして、いろんな音が聞こえる。
 熱気に喧噪。何とも賑々しい街だ。
 ティカは人の合間を縫うように走り、ついに視界の開けた波止場へ飛び出した。




1章:出会いと出航 - 2 -


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