夜になり、大勢の船員が主甲板に集まってきた。
 明日はいよいよ出航である。今夜は陸で過ごせる最後の夜。当直がなければ街へ降りても構わないが、大半の者は船に戻っていた。門出を祝して船上で宴を開いているのだ。
 美しい港町の夜景、満点の星空を見あげながら、陽気に飲んで騒いでいる。
 ヴィヴィアンも楽しそうに仲間と談笑している。シルヴィーに釘をさされたせいか、街には降りなかったようだ。離れて見ていても、彼が船員に愛され、尊敬されている様子がよく判る。
 船員は荒っぽい海の男ばかりだが、なかには音楽に心得のある者もいるようで、彼等はバイオリンやスネアドラムを鳴らして、周囲を大層盛りあげていた。なんと陽気な音楽であることか。聞いているだけで楽しくなってくる。
 ティカはオリバーと一緒に、夢中で海の幸の料理に舌鼓したつづみを打っていた。日中ずっと働いていたので、腹ペコなのだ。
 気のいい水夫がゴブレットを渡してくれたが、口に含んだ途端に、思わず吹きだしそうになった。まるで炎を呑みこんだようだ。我慢してどうにか飲み干すと、口を拭って息を吐いた。
「新入り! いい飲みっぷりじゃねぇか」
 傍で見ていた男が、楽しそうに笑った。
「大丈夫かよ?」
 オリバーはティカの背を摩りながら、心配そうにいった。
「このお水……腐ってない?」
 ティカが真面目な顔をして呟くと、男たちは爆笑した。
「老朽船とは違うんだぜ! ヘルジャッジ号の水タンクは、一年航海したって腐りゃしないよ。そいつはラム酒の水割りさ! 景気づけにいいだろ。男を鼓舞する強壮剤だぜ」
「碌でもねぇな。ティカはまだ子供なんだぞ!」
 オリバーは噛みついたが、周囲の男達はけらけらと笑っている。
「お前だって、子供だろうが! 一応、水で割ってやったんだぜ」
「ティカも腐ってると思ったなら、何で全部飲んだりしたんだよ」
「途中でやめたら、絶対飲めないと思って……うっ、げほっ、喉が焼けそう」
 膝を抱えてヘロヘロになっていると、オリバーを含め、周りの水夫達が世話を焼いてくれた。
「ほらほら、新入り。水にしときな」
 そういって男の一人が、檸檬水をさしだした。ティカはありがたく受け取り、焼けた喉に流しこんだ。よく冷えていて美味しい。
 酒を飲んだせいか、間もなくして強烈な眠気に襲われた。ティカの頭が左右に揺れ始めると、周囲はまたしても爆笑した。
「面白ぇ、見ろよ、もう船を漕いでやがる! 出航は明日だぜ、新入り!」
「しょうがないなぁー。船室デッキに連れていってやるよ」
「ごめんよ……」
「いいよ。ハンモックを貰わらないとな」
 オリバーはティカを助け起こすと、パン庫や食料のある第三甲板に連れていった。船首の方に理財士が働いている工房兼事務所があるのだ。
 そこには、荒っぽい水夫とは明らかに違う、青色の制服を着た事務員たちがいた。驚くべきことに女性もいる。
 少年二人が窓口に立つと、灰金髪に金緑の瞳をした素晴らしい美人が、硝子越しにほほえんだ。
「貴方がティカさん? 私はプリシラよ、よろしくね」
 ティカは顔が火照るのを感じた。
「ハンモックや衣類といった日用品、それから配給は私が管理しているの。身の周りで困ったことがあれば、遠慮せずに声をかけてちょうだい」
「は、はい」
「初乗りの水夫にはハンモックを二つ支給しているわ。使い方はオリバーから聞いてね」
 そういって彼女は、受け渡し口にハンモックを二つ置いた。一つはティカが抱え、もう一つはオリバーが持ってくれた。
「それと、キャプテンから署名入りの契約書を預かっているのだけど……念のため、控えを渡しておくわね」
 美しい装飾の入った用紙を受け取り、ティカは一瞬だけ視線を落とすと、すぐに問いかけるように顔をあげた。
「……よく判らない?」
 プリシラが訊ねると、ティカは小さく頷いた。オリバーはティカの手元を覗きこみ、三角の耳をぴこぴこ動かしながらティカを見つめた。
「航海契約書だよ。全員、航海前に署名する義務があるんだ。ティカ、自分で署名したんじゃないの?」
「してないよ。それに僕、文字は読めないし……何て書いてあるの?」
「金品分配とか、褒賞とか、罰則とか、その他諸々の規約についてだよ」
「ふぅん」
「きちんと説明しましょうか?」
 プリシラは親切に申しでたが、ティカはかぶりを振った。聞いたところでよく判らないだろうと思ったのだ。
「まぁ、一航海の契約だから心配いらないよ。航海誓願を立てる時は、もうちょっと悩んだ方がいいだろうけど」
「ふぅん」
 ティカの顔を見て、判ってないだろ、とオリバーは苦笑いを浮かべた。