メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

1章:出会いと出航 - 1 -


 嵐がきた。
 もう七日も雨が降り続いている。叩きつけるような雨は「幸福館」の壊れかけた窓硝子を、がたがたと激しく揺さぶった。
 とどろく雷鳴と共に、空を鉤裂かぎざき状に走る稲妻は、闇夜の空を昼のように照らしている。
 鳴りやまないドラムロールと、叩きつけるようなシンバルの音。
 いつもなら、わくわくしながら外を眺めるのだが、サーシャが寝込んでいる今は、とてもそんな気分にはなれない。
 サーシャは病魔にむしばまれ、死にかけていた。ティカはだいだい色の瞳からポロポロと涙を零して、サーシャの手を握りしめた。

「サーシャ……」

「そんなに泣かないでよ……ティカ。あなたが、苦しいわけじゃないでしょ……けほっ」

 サーシャはにやりと笑おうとして、失敗した。酷く咳き込んで、苦しそうに顔を背ける。小さな背中をさすりながら、どうすれば彼女は助かるのだろうと、ティカは必死に考えた。
 この嵐が治まれば、咳は止まるだろうか? それとも、サーシャの好きなプラムを食べさせたら、具合は良くなるのだろうか?
 あるいは、女神様が本当にいるのなら、今すぐサーシャを治してくれるのだろうか?
 彼女を助けられるのなら、何だってするのに……
 ティカは三歳の時から、サーシャは生まれた時から幸福館で暮らしている。
 周囲を深い茂みで囲まれた、幸福館以外には何もない寂しい所だ。
 大通りを真っ直ぐ降りていけば、華やかな王都であり世界の寄港地でもある、パージ・トゥランに辿り着くらしいが、ティカは一度も幸福館の外に出たことがなかった。
 走ることしか取り柄のない、見栄えの悪いティカを、大人は外へ連れ出そうとはしない。
 けれど、サーシャは別だ。
 蜂蜜みたいな亜麻色の髪に、はしばみ色の瞳。少女らしい滑らかで丸い頬。器量もいいし、頭もいい。明るくて優しいサーシャは、皆の人気者だ。
 大人達は、ティカに勉強を教えることを諦めてしまったけれど、サーシャだけは見捨てなかった。本を逆さまに持っていることすら気付かないティカに、根気よくいろんなことを教えてくれた。

「ねぇ、ティカ。嵐が止んだら……ううん、止む前に、誰にも見られずにここを出て行くのよ」

「嫌だよ、サーシャといたい……」

「私も、ティカといたいけど……無理。どんなに遅くても、明日の昼にはバーシスクさんがくるわ。最期のチャンスなのよ。いい子だから、逃げなさい。捕まったら、きつい商業船に乗せられちゃう」

 サーシャは最近、その話ばかりする。
 頭の悪いティカは、十四になった今も引き取り手はおろか、街に降りて仕事を探すこともできない。穀潰しのティカに大人は冷たい。ティカは間もなく過酷な肉体労働を求められる商業船に、奴隷同然で乗せられるのだとサーシャは言う。頭のいいサーシャが言うのだから、きっとそうなのだろう。しかし……

「一緒にいたいよ」

 商業船に乗ろうが、幸福館を出て行こうが、サーシャが隣にいなければ同じことだ。

「ティカ、お願いよ……」

「ここにいる」

 ティカが告げると、サーシャのはしばみ色の瞳は悲しげに曇った。

「ねぇ、ティカ。私ずっと一緒にいるわ。ティカが瞳に映すものを、私も風になって見る。そよ風が吹いたら、私を探して。きっと傍にいるから」

「サーシャは、サーシャだよ。そよ風なんかじゃない」

 サーシャは手を伸ばしてティカのくせっ毛の黒髪を、くしゃくしゃに掻きまわした。

「今はね。そのうち、そよ風になるの。いい? ティカ、海を見に行こう。歩道に沿って真っ直ぐ降りて行けば、パージ・トゥランに出るから。海の宝石と呼ばれるくらい美しい港街よ。ティカの足なら、きっとあっという間よ」

「でも、外に出たら怒られるよ……」

「だから、見つからないように、黙って出て行くの。海岸沿いに出ないように気をつけてね。そっちは世界周航している商業船がたくさん止まるから。内港を目指すのよ。そこではしけ……荷物を倉庫に運ぶ小さいを船を見つけたら、働かせてくださいって頼むの」

「行かないよ、サーシャ。それに、どうせ乗るなら海賊船がいい」

「海賊船なんて、商業船より危ないじゃない」

「港にヘルジャッジ号が停泊してるって噂、本当かな?」

「駄目、危ないから。絶対に近付かないで。内港だって寄港地の延長よ、いろんな人がいるわ。きっとティカも気に入る」

「それじゃ、無限海を駆ける貿易船、カーヴァンクル号は?」

「それは私も見てみたいけど……何しろ、誰も見たことがないって聞くし。でも、内港で懸命に仕事をしていれば、いつかは見れるかもね」

「……」

 サーシャは黙り込むティカに、いつものようにあれこれ教え込もうとした。
 どういう大人に声をかけるのか、あるいはかけてはいけないのか。内港へ降りたら、真っ先に何をするのか……
 ティカも一生懸命覚えようとしたけれど、半分も理解できなかった。それより、サーシャが苦しそうに咳き込むので、そちらの方が気になった。

「サーシャ、もう寝ようよ」

「――ううん、私、判るの。これが最後だから、何遍でも言わないと。ティカは人より少し覚えが悪いけど、一生懸命話を聞くいい子だよ。十回も聞けば覚えられるでしょ?」

「十回聞いても、覚えられないこともあるよ」

「大丈夫。私の言うことなら、きっと覚えられる。ティカは、私のこと大好きでしょ?」

 にっこり笑うサーシャを見て、ティカは照れ臭そうに頷いた。

「私も、ティカのこと大好き。水筒とビスケットを持って、夜明け前にここを出て行くのよ。内港で荷運びしている小舟を見つけたら、様子を見て。立派な靴を履いた大人に声をかけるの。それから、働かせてもらえるように頼むのよ。幸福館には二度と戻らないで!」

 彼女の中ではもう、ティカがここを出て行くことは決定しているらしい。悲しい気持ちになったが、咳き込みながら懸命に喋るサーシャの言葉を、ティカも懸命に聞いた。
 薄い背中を摩りながら、もうお休み、と何度も囁いたが、サーシャはその度に首を振った。

 嵐は、まるでやむ気配はなかった。




1章:出会いと出航 - 1 -


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