アール川でピクニックをした日から三日。
 光希は連日続く工房作業に、疲労困憊していた。直近の納期は四日後に迫っているというのに、納品の目途が全く立たないのだ。
 依頼主は、光希の評判を耳にした飛竜隊の佐官で、ほこに武神、シャイターンを彫って欲しいという。
 過去に同じようなを、ユニヴァースやジュリアスの実剣に彫った実績がある。だから、今回も同じように出来るはずだと見積もっていたが、作業は思いのほか難航していた。
 加工班工房で、光希は習作用の刀身を彫る手を止めた。
 もうあらかた彫り終えているが、失敗していると判っている。くろがねに宿る力を、全然あらわせていない。諦めきれずに彫り続けてしまったが、時間と刀身を無駄にしだだけだ。
 うまくいかない……
 今日、目途が立たないようであれば、アルシャッドに相談しないとまずいだろう。だが、彼は最近工房にいない。別件で忙しいらしく、朝礼にも参加せず現場に直行直帰する日々が続いているのだ。
 アルシャッドは今、ノーグロッジ作戦で命を落とした二百余名の、未回収ネームプレートを納品する為、聖域と呼ばれる墓所に日参している。
 肉体は地上に残らないので、身のあかしであるネームプレートや、装飾品を代わりに土に埋めて石柱を建てる。それがアッサラームの埋葬方法だ。

「殿下、浮かない顔ですな。いかがされましたか?」

 行儀悪く頬杖をついていると、サイードに声をかけられた。光希は慌てて姿勢を正すと、長身を仰いだ。

「いえ……アルシャッド先輩に、相談したいことがあるんですけど、忙しいかなぁって考えていたところで……」

「なに、同じ宮殿にいるのですから、顔を見せるくらいできるでしょう。工房にくるよう、遣いをやりましょうか?」

「あ、そんな……それなら僕がいきます」

「お手間ではありませんか? 聖域は橋向こうにありますし、かなり距離がありますよ」

「平気です。行き詰ってしまって……息抜きもしたかったから」

 光希が苦笑いを浮かべると、そういうことなら、とサイードも頷いた。
 班長の許可も取れたので、勤務中ではあるが早速ルスタムを連れて馬車でアルシャッドを探しにいく。
 そういえばここへきて随分経つのに、儀式以外で大神殿の方まできたことがない。シャイターンに祈りを捧げる典礼儀式は毎日行われているというのに……いかがなものか、と光希は今更ながら後ろめたく感じた。

「アッサラームの信仰心が足りないから、罰があたったのかなぁ……」

 光希は心配げに呟いた。

「おかしなことをおっしゃいますね。御身が信仰の象徴そのものですのに」

 ルスタムの言葉に、光希は力なく首を振ってみせた。

「いやぁ……周りは神聖視してくれるけど、僕自身は敬虔けいけんとは無縁だよ。それに僕にとっての神様は、シャイターンじゃなくて、ジュリだし」

 ルスタムは口元を綻ばせた。

「シャイターンへの献身と同じことですよ。そのようにシャイターンを敬う殿下に、罰など当たるわけがありません」

「ならいんだけど……」

 雑談するうちに、景色が変わった。
 アルサーガ宮殿の広大な敷地のおよそ三分の一は、大神殿の管轄だ。
 その中には、典礼儀式を執り行う大神殿の他に、神官達が修道生活を送る宿舎や、これから向かう聖域も含まれている。
 アール川に架かるアルサーガ橋を渡り、対岸に渡った先が聖域の入り口だ。非常に広大な為、徒歩ではいけない。馬車に乗ったまま、聖域の車道を進んだ。
 聖域は美しい庭園でもある。
 幾種もの白薔薇と純白のジャスミンが辺り一面に咲き乱れ、見渡す限り整然と並ぶ墓標――六角柱の水色虹彩に輝く水晶アクアオーラは、陽の光を浴びて煌めいている。
 この世にあらざる幻想的な光景だ。
 聖域に足を踏み入れた途端、開けた窓から清らかな風が流れた。
 遠くから死者を悼む鎮魂歌が聞こえてくる。天使の歌声だ。少年だけで構成されている、大神殿の聖歌隊だろう。
 ようやく人の集まる一帯を見つけて、馬車を止めて窓から様子を伺った。
 大勢の遺族や、神官達、小さな聖歌隊、関係者らしき隊員の姿が見える。天上の調べが響く中、墓標の前に跪いて、語りかけるように献花する人達。
 とても神聖で、壊してはいけない空気が流れていた。

「殿下、いかがいたしますか?」

 アルシャッドの姿を見つけたけれど、声はかけられそうにない。

「邪魔するのはやめておこう……でも、もう少しだけ、ここにいようかな」

 しばらく神聖な光景を眺めた後、光希は静かにその場を去った。

 +

 工房に戻り、やりかけの鉄を見たら、思わずため息が出た。
 やらないと。
 しかし、一人ではもう終わりそうにない。明日、調整をお願いしなくてはいけないだろう……
 せめて、やれるだけやる。そう決めて、光希は終課の鐘が鳴っても、工房で作業を続けた。ルスタムは心配そうにしていたし、隊員達も様子を見にきてくれたが、集中を切らしたくなくて休憩もとらずに作業を進めた。
 見かねたルスタムに説得されて渋々引き上げてからも、お屋敷の工房に籠って鉄と向き合った。
 失敗が怖いわけじゃない。
 それよりも、あると信じていた力を失うかもしれない恐怖を感じていた。
 思い知らされる。光希にとって鉄を彫ることは、ジュリアスの花嫁ロザインとして傍に在るためのよすがなのだ。
 ジュリアスの隣にいていいのだと、この大地に生きていいのだと、シャイターンに許されている気がしていた。
 それなのに――
 少し調子が悪いだけだと思っていた。ここまで苦戦するとは考えていなかった。
 何度目かの失敗作を見つめて、やりきれない歯痒さがこみあげ……思わず作業台を拳で叩いた。