軍舎に戻ると、真っ直ぐクロガネ隊の工房に向かった。
 今日は一日休みをもらっているのだが、老師の素晴らしい演奏のおかげで、ナディアの依頼――楽器装飾への意欲が湧いていた。鉄は熱いうちに打て、だ。

「楽器にくろがねは合わないと思ってたんですけど、考え直しました」

 光希の言葉に、アルシャッドは眼鏡の奥から知性の浮かぶ双眸を和ませた。

「思い描く通りに、多様な質感と形を具現化できる加工性の良さ、表現力の豊かさ……鉄は最も優れた素材だと思いますよ」

「抱えた時、手にひっかからず、音の邪魔をしないもの……表面は明るい茶色だから鉄に目がいくし、印象を損なわないような意匠がいいですよね?」

 アルシャッドは「じっくり考えてごらんなさい」と穏やかに回答をはぐらかした。

「発想を形にするには、実現する為の技術が必要です。それは、いくらでも教えてさしあげますよ」

「はーい……」

「ふふ。あ、そうだ……天体望遠鏡の試作が出来ましてね……」

「おぉ……!」

 どうぞ、と渡された白い筒を早速覗きこむ。多少ぼけてはいるが、十分だ。ガリレオの使った望遠鏡より具合はいいかもしれない。

「アージュ。ほら、見てごらん!」

 武器棚を眺めるアージュを寄びやり、筒を覗かせる。

「わ……」

 アージュは映りこむ虚像に驚きの声を上げ、不思議そうに筒を眺め回すという、期待通りの反応をくれた。
 ふと休憩がてら、サリヴァンに見せに行こうと閃いた。

「先輩。少しだけ借りてもいいですか? 休憩が終わったら返します」

「いいですよ」

 +

 大神殿へ向かう道すがら、子供の声に思わず足を止めた。
 うずくまって泣きじゃくる姿には見覚えがある。前にもここで出会った子供だ。
 見過ごすわけにもゆかず、小さな背中にそっと声をかけると、子供は飛び上がらん勢いで振り向いた。

「殿下っ」

 光希と気付くなり、拙い仕草で跪く。それを「いいから、いいから」と制しながら近寄る。

「こんにちは。一人?」

「あ……エステルは、今お稽古をしていて……」

「君の名前は?」

「カーリーです」

 可愛い響きの名前だ。そういえば、そんな名前の映画もあった。けれど彼は名前と違って、流れるように美しい銀髪をしている。

「どうして泣いているの?」

 哀しげに視線を伏せる。大きな瞳から、涙腺を決壊させたように大粒の涙がぽろぽろと零れた。どうしたものか……。

「これから実験しに行くんだけど、良かったらカーリーも一緒に行く?」

「実験……?」

「天体望遠鏡だよ。遠くのものがよく見えるんだ。ほら、覗いてごらん」

 望遠鏡を手で固定してやると、カーリーは素直に顔を寄せた。

「わぁ……っ!」

 カーリーは、子供らしい感嘆の声をあげた。眼をきらきらと輝かせて、天使のような笑顔で光希を仰ぎ見る。

「あの玉ねぎ屋根の天辺に登ったら、絶景だと思わない?」

「……! あ、でも……僕、お稽古に戻らなくちゃいけないんです。見つかったら怒られちゃう……」

「お稽古って?」

「聖歌隊の、歌の練習です。もうすぐエステルが辞めちゃうから、僕が代わらないといけなくて……」

「エステルの代わり?」

 愕然とした。彼の代わりを務めるのは、誰であれ胃が痛いだろう。まだこんなに小さいのに……。

「僕はこの間、我慢し過ぎて倒れたんだ。辛くて無理だと思ったら、立ち止まったり、休んでもいいと思うよ……」

 涙に濡れた青い瞳で、光希を仰ぎ見る。

「でも……エステルの前で、辞めたいなんて言えないんです……」

「どうして?」

 青い瞳に哀しみがよぎる。しかしカーリーは、答えを口にする前に、探しに来たらしいエステルに連れられて行った。

「……どうして、エステルの前だと言えないんだと思う?」

 二つの小さな背中を見送りながら、隣を歩くアージュに尋ねてみた。なんの興味もなさそうに一言「さぁ?」と返る。

「アージュも、辛くて裏庭で泣いちゃうことってある?」

 今度は斜め上に視線を動かし、再び光希へ戻すと、

「……泣いたことがありません」

 驚きの発言をした。絶句。光希はここへきて、何度泣いたか知れない。あの時も、あの時も……。
 少しでいいから、アージュの豪胆さを分けて欲しい……。