何か良くないことが起きるのでは……と恐れていたが、何事もなく典礼儀式は終了した。

「光希、何があったの?」

「うん……後で話す」

 アースレイヤ達から目を離さずに返事をすると、ジュリにぐいっと肩を抱き寄せられた。問いかけるような双眸を見上げて「ここでは言えない」とだけ応える。

「お早うございます。ムーン・シャイターン、殿下」

 ジュリは光希を背に庇うようにして、アースレイヤに対峙した。
 皇太子の後ろには、美しく佇むリビライラと、憂いを秘めたサンベリアの姿が見える。

「お早うございます、アースレイヤ皇太子」

 ジュリの背から出ると、変わらぬ穏やかな眼差しを向けられる。

「朝からお会いできて、嬉しいですよ」

「毎日きているのですか?」

「ええ、来れる日は。お二人は心境の変化ですか?」

 からかうように問われて、光希は照れくさげに微笑んだ。

「すみません、なかなかこられず……」

「もし良ければ、この後ご一緒にお茶でもいかがですか?」

「すみませんが、用事がありますから」

 光希が口を開くよりも早く、ジュリは一瞬の躊躇もなく断った。アースレイヤは「残念ですよ」と如才ない笑みを閃かせる。
 しかし、用事があるのは本当だ。この後は二人で神官宿舎へ行く約束をしている。
 彼等の様子を観察しているうちに、ジュリに肩を抱かれたまま外へ連れ出された。もう少し彼等の様子を見ていたかったのだが……。
 二人きりになると、さっきの不思議な体験をジュリに話して聞かせた。

「……それは、祈りに触れる未来の断片ではないでしょうか」

「だとしたら、近いうちにサンベリア様の身に、よくないことが起こるかもしれない」

 光希が縋るような眼差しを向けると、ジュリは眼をしばたいた。

「それだけの情報では、動きようがありませんよ」

「高位の神官が関係していると思うんだ。顔を見れば分かるかも……」

「念の為、大神殿の警備を厚くしておきます」

「この情報を、サンベリア様にだけ、こっそり教えてあげられないかな?」

「不用意に脅かすだけですよ。典礼儀式は私も注意しておきます。中にも兵を配置させましょう」

「うん……」

 光希は不安な気持ちに一先ず蓋をして、大人しく頷き返した。

 +

 緑の木立に建つ神官宿舎。
 淡い赤茶色の美しい建物に踏み入ると、まるで時を止めたような静寂に包まれた。
 窓から差し込む光に照らされて、たゆたうちりはきらきらと輝いている。微かな空気の流れが運ぶ不思議な匂い。柱の手触り。石壁の冷たさ……。
 音がない。
 人影はあっても、声を発している人はいない。これか……! と流星のごとく閃いた。
 これが噂の、ナフィーサやサリヴァンの話していた「沈黙」の戒律。
 活動している時間帯ですら守らなければいけないという。発言を許される場所以外では、基本的に口を開くことを許されない……。これは辛い。光希ならとても耐えられない。一日で音を上げそうだ。
 幼少時をここで過ごしたというだけあり、ジュリの足取りは淀みない。入り組んだ迷路のような石廊を、すらすら歩いてゆく。
 やがて、幾何学な青いタイルで埋め尽くされた礼拝堂についた。
 イブリフ老師は静かに黙想していた。高齢と聞いているが、その後ろ姿に弱さは欠片もなく、大樹のように泰然たいぜんとしている。
 ジュリは老師の前にひざまずくと、ぬかづきそうなほど深く頭を下げた。
 老師はジュリの肩に触れると、今度はめしいいた双眸で光希を見やる。
 深い皺の刻まれた瞳の色は殆ど白に近い。光を映さぬと聞いているが、対峙するとつぶさに観察されているような心地を味わう。
 ジュリにならって額づくと、節くれだった大きな手が光希の肩に触れた。
 声に出して挨拶をしていいものか迷っていると、老師は静かに立ち上がり、礼拝堂を出て行った。その後をジュリと二人でついてゆく。

「お傍で学んでいた時は、いつもこうして師の後ろを歩いていました」

「喋ってもいいの……?」

 ひそひそと囁くと、ジュリはふっと微笑を零した。

「平気ですよ。神官誓願を立てているわけではありませんから。でも、小声で静かに」

 老師は中庭の池の縁に腰かけると、指先を水に浸してまた黙想を始めた。ジュリも池の縁に腰かけ指先を水に浸したので、光希も真似をする。
 育ての人、イブリフ老師に思い馳せるうちに、水に触れる指先に自然と意識は集まった。
 アール川から水路を引いている池の水は、冷たくて心地いい。
 眼を閉じても、水が流れゆく光景が瞼の奥に浮かぶ。
 陽の光を瞼の奥に感じながら、梢の音や鳥のさえずりに耳を傾ける。
 人の声は聞こえなくとも、決して静寂ではない。むしろ自然界の音に、五感が目覚めていくようだ……。
 ふと、想像してみた。
 幼いジュリが小さな足で、師の後をついて歩く姿を――。
 小さな手で水を掻いて、こんな風に五感で自然を感じ取ったのだろうか。静寂の中で、どんな黙想をしたのだろう。
 そのあとも自然に寄り添う、素朴で静かな時間を三人で共有した。
 陽を浴びながら黙々と田畑を耕し、昼は中庭に面した廊下で、質素だが美味しい食事を共にした。
 昼食後は、再び礼拝堂で黙想に耽る。
 老師は、最後に中庭でラムーダ演奏を聴かせてくれた。沈黙する宿舎の中で、柔らかな音色がこの上なく鮮やかに聞こえた。

「老師は神殿楽師シャトーアーマルなんです。昼と夜は演奏による祈りを捧げています。幼い頃、私やナディアは彼から演奏を習いました」

「へぇ、そうなの……」

 流石ジュリのお師匠様。見事な演奏だ。思わず、目を閉じて聞き惚れてしまう……。
 老師とは、最後まで一言も言葉を交わさなかったけれど、共有できたものは多かった。
 宿舎を出た後、光希は声量を戻して笑みかけた。

「ジュリ、今日はありがとう」

「いいえ、こちらこそ。老師に光希を紹介できて良かった。おめでとうと祝福してくれましたよ」

「そうなの!? いつ?」

 ジュリはくすりと微笑した。

「寡黙な方ですから」

「寡黙っていうか……」

 いつ、喋ったんだろう……。
 老師とジュリの間で交わす、声なき会話なのだろうか。ジュリは人差し指を唇にあてて微笑んだ。
 気になる。でもジュリが幸せそうにしているので、その秘密を暴く気にはなれなかった。