人の少ない深緑の裏庭に出ると、大きな幹に並んでもたれかかった。
 鮮やかな黄緑の合間から、木漏れ日がきらきらと降り注ぐ。木陰に流れる涼風は、二人の頬や髪を撫でてゆく。
 和やかな空気を壊す覚悟で、光希はずっと気になっていたことを切り出してみた。

「ジュリ、あのさ……サンベリア様のことなんだけど」

 見下ろす涼しげな双眸が、スッと細められた。怯んでなるものかと続ける。

「男の子が生まれた場合、一切の継承権を放棄することはできないのかな?」

「もう東妃の懐妊は周知されています。彼女個人が主張したところで、周囲は認めないでしょう」

「アースレイヤ皇太子が許しても?」

「皇太子の身にありながら、生まれてもいない第二子を廃嫡に処すなど、許されないでしょう」

「ジュリは?」

「――光希、懐妊を認められた東妃に、私が手を差し伸べることはできません。ベクテール家にしてみれば、待望の懐妊です。男子なら権威も見えてくる。彼女の目線に立たず、全体を見渡せば国を挙げての吉報なんですよ?」

 視線を伏せて、諭す眼差しから逃げた。

「……そのせいで殺されたら、元も子もないじゃない」

「こんなところで、滅多なことを言わないでください。その可能性を含めて、彼女が自分で対処すべきです。ベクテール家も周到な警備で彼女を守っていますよ」

 殺されなければ、それでいいのだろうか。この先も続く長い人生を、憂鬱を抱えながら過ごすしかないのか……。
 ジュリは光希の肩を抱き寄せると、頭のてっぺんにキスを落とした。

「光希が気に病むことではありません。忘れてください」

 忘れたくとも忘れられない。この先もなんだかんだで、彼女とは顔を合わせるのだ。

「それより、今日はこの後どうしますか?」

「うん……」

 思いにふけるうちに、話題は移ってしまった。ジュリは光希の手を握りしめると、今度こそ返答を求めて見つめてきた。

「サリヴァンに会いに行きたいんだ」

「いいですよ。もう少し時間がありますから、一緒に行きます」

「本当? まだ時間ある?」

「はい。朝時課の鐘が鳴るまででしたら」

「それなら……それまで二人で過ごさない? サリヴァンには、後でルスタムと一緒に会いに行くから」

 朝時課の鐘が鳴るまで、あと一刻はあるだろう。ジュリは嬉しそうに微笑んだ。

「もちろん、構いませんよ」

 意気投合したところで、大神殿前の広場に面した庭へと向かう。手を繋いで歩いていると、どこからか少年の話し声が聞こえてきた。

「……リー、どうしてお勤めを果たさないの。今日はムーン・シャイターンも、殿下もお見えになっていたのに……」

「……ル、だって……、……は嫌です」

 どうやら、話題はジュリと光希に及ぶらしい。このまま歩いて行くと、姿を見られてしまう。鉢合わせるのは少々気まずい。

「聖歌隊の少年ですね」

「あれ、あの子、さっき歌っていた子だ……」

 思わずじっと見つめていると、視線に気付いたように幼い少年達は振り向いた。ジュリと光希に気付くなり、慌てふためいてその場にひざまずく。

「こんにちは……あの、綺麗な歌声でした。思わず聞き惚れるくらい」

 なるべく優しく声をかけると、少年は頬を紅潮させて「ありがとうございます」と、綺麗な声でお礼を口にした。その隣で、更に幼い少年が目を丸くしてこちらを見ている。

「ムーン・シャイターンと、殿下……?」

 その少年の声もとても可愛らしい。思わず笑みかけた。

「また、歌声を聞けることを楽しみにしています」

 決して社交辞令ではない。典礼儀式に参加する日は、彼の歌声をまた聞かせて欲しい。

「は、はい……っ! ぜひ、またいらしてください。お待ちしております」

 顔を輝かせる少年に、光希もまたにこやかな笑みを向けた。


 +


 早朝の散歩もなかなか気持ちいいものだ。
 ここには、華やかな公宮の庭園とはまた違った魅力がある。
 ちた煉瓦の垣根に、蔦が絡み、錆付いた園芸道具に、太陽みたいな黄金色のジャスミンが寄り添っている。
 過ぎ去りし時間の跡をとどめるような、古色蒼然こしょくそうぜんとした趣のある庭だ。

「宮殿の庭って、どこも綺麗だよね」

「どこが一番好きですか?」

 それは難しい質問だ。どれも素晴らしい庭園ばかりだし、それぞれ違った魅力がある……その中でも、選ぶとすればやはり、

「屋敷の庭かなぁ。あちこちで見かけるから、ジャスミンをすごく好きになったよ。正門に面したクロッカスも好き。一面綺麗に咲いたよね……ジュリは?」

「私も同じです」

 甘い眼差しに見下ろされて、不意打ちで鼓動が跳ねた。なぜ照れているのか判らないままに、視線を逸らす。
 ふと直進した先の十文字通路に日時計のオブジェを見つけた。

「また日時計だ。二つ目だね。天球儀も見かけたし、大神殿の庭って神秘的だね」

「神々の世界アルディーヴァランを信奉する、天文学信仰の膝元ですから。世界の運行に思いを馳せる仕組みや装飾が、庭園にも反映されているんですよ」

「ふぅん……庭園にもいろいろあるんだね。公宮は薔薇っ、聖域は真っ白っ、ここは神秘的……って感じがする」

 ざっくりした感想を漏らすと、ジュリは愉快げに微笑んだ。
 緻密な設計の元に敷かれたであろう庭園を、一言で評したのが可笑しかったのかもしれない。