屋敷に戻ると、ナフィーサやルスタム達が安堵の表情で出迎えてくれた。

「お帰りなさいませ、シャイターン、殿下」

 ジュリアスは一瞥もせずに素通りしたが、光希は二人の顔を見て足を止めた。
 が、話をする間もなく、ジュリアスに手を取られて引っ張られる。

「ちょっと」

 抗議の声は無視された。引っ張られている腕が痛い。小走りでジュリアスの背中を追い駆け、二階の私室に入ると、ようやく手を離された。

「ここで待っていてください」

 そういってどこかへ消えてしまう。
 視界に水差しが映り、光希は迷わず手に取った。絨緞に腰を下ろして、勢いよく三杯飲みほす。

「はぁ……」

 遠くから、終課の鐘の音が聞こえる。
 疲れ果てた……もうこのまま眠ってしまいたい。
 何て一日だったのだろう。ユニヴァースとサンマール広場を歩いたことを、遠い昔のように感じる。
 ぼんやり虚空を見つめていると、ジュリアスは薬箱を手に戻ってきた。

「傷を見せてください。入浴する前に薬を塗ります」

「迷惑をかけて、ごめんなさい……」

 悄然と呟く光希に、ジュリアスは無言で手を伸ばした。羽織っている外套を脱がせ、その下の寝間着も脱がせる。上半身は裸で、下はズボンだけ履いている状態だ。

「怒ってるよね……」

 謝罪を黙殺し、ジュリアスは小瓶から、薄緑色のクリームを指にすくい取った。
 光希の背中や腕をつぶさに見ながら、すり傷の上に薄く塗る。ひんやりしていて、ハーブの香りがする。痛みは感じない。
 腹周りの縄で締めつけられた跡は、指がかすめるだけでじくじくした痛みが走った。痛々しい患部を見つめて、ジュリアスは顔をしかめた。治まりつつあった青い瞳の光彩は、一際強くなる。

「ジュリ……」

 深刻そうに傷を眺めるジュリアスを見て、あの恐ろしい体験が脳裏に蘇った。
 のどかな街中だったのに……
 突然、通行人に襲われて、麻袋を頭から被らされた。
 縄で縛られ、思うように酸素を吸えず、口からひっそり呼吸を繰り返して。日射しが照りつけ、身体中から汗が噴き出た。頬を伝う汗を拭いたくても、腕を縛られて叶わない……湿った重苦しい空気。最悪だった。
 麻袋の後は、ヴァレンティーンの前に連れていかれた。地下室。それから――その先は思い出したくない。
 危ないところだった。ジュリアスがきてくれなかったら、どうなっていたことか。

「助けてくれて、ありがとう……」

 呟くと、両手を握りしめられた。ジュリアスは掴んだ手を額に押し当てると、

「こんなに傷をつけて。許せないッ」

 呻くように呟いた。ジュリアスも苦しんでいる。いろいろなことに腹を立てている。

「勝手に抜け出して、ごめんなさい。歩兵隊の合同演習が終わるまでに、戻ろうと思ったんだ。あんなことになるなんて、思わなくて――」

「いってくれたら……私が同行できたかもしれない。少なくとも護衛をつけられたのに。私がどんなに守ろうとしても、光希が自覚してくれなければ何の意味もありません」

「ごめんなさい……」

 悄然と呟いた。

「……足を見せて」

 大人しく足を差し出すと、ジュリアスは黙々と擦り傷に薬を塗った。
 一通り塗り終えると、光希を横抱きにして屋内の浴場へと運ぶ。移動する間、会話はない。苛立つジュリアスが怖くて、自分で歩くとはいえなかった。浴室についた後も、傍を離れようとしない。一緒に入浴しようとするので、慌てて押し留めた。

「一人で入れるよ」

「私の手で洗いたいのです」

 強い視線と口調で告げられ、光希は反論の言葉を呑み込んだ。

「……判った」

 服を全て脱ぐと、ジュリアスも服を脱いで光希を抱き上げる。そのまま浴場に入り、タイルの上にクッションを置いて、光希を座らせた。

「濡れちゃうよ」

 驚いて腰を浮かすと、いいから、と肩を押さえられた。そして光希の頭から湯をかける。
 当然、尻に敷いた高そうな天鵞絨びろうどのクッションも湯で濡れた。
 傷薬のおかげで湯はあまり沁みなかったが、それでも多少は痛みが走る。
 ジュリアスは光希の全身を、労わるように洗い上げた。
 ハーブの香る石鹸で髪を洗い、麻布まふで身体も洗う。傷に沁みぬよう、細心の注意を払っていると判る、慎重な手つきで。

「ジュリも背中洗ってあげる」

 麻布を彼の手から奪い、後ろを振り向いた。

「私は……」

「いいから、いいから」

 ジュリアスは躊躇ったが、光希が急かすと大人しく背を向けた。
 傷も染みもない、滑らかな背中だ。
 石鹸を馴染ませた麻布でこすると、布越しに鋼のような筋肉の感触が伝わり、妙にどきどきした。自分の背中とはまるで違う……
 地下室で見た時は、服のあちこちに血が跳ねていたが、全て返り血だったようだ。彼の身体には傷一つない。
 良かったと胸を撫で下ろし、ふと気付いた。
 彼も、光希の身体の傷を確認したかったから、一緒に入りたいといったのではないだろうか。

「……心配かけて、ごめんね」

 背中から抱きしめると、ジュリアスは肩を強張らせた。光希の腕を柔らかく解いて、振り向く。