「まぁ諸々……腹いせです。花嫁ロザイン、貴方は大切な人質ですから、丁重にもてなすとお約束いたしましょう」

 腹いせ……? 増々訳が判らない。

「……僕を誘拐した罪は、決して軽くないはずです」

「シャイターンの貴方への寵愛が本物であることは、よく存じ上げております。さぞお怒りになるでしょう……ですが、私はもう既に、はらわたが煮えくり返るほど、腹を立てておりますから」

 男は口元に嘲笑を刻んだ。冬の湖水を思わせる双眸に射抜かれ、光希の肩は震える。

「……誰に?」

「誰だと思いますか?」

「……シャイターン?」

「当たらずも遠からず。青い星の御使い、貴方もシャイターンの信奉者ですか?」

「もちろんです。きっと助けにきてくれると、信じています」

 即答すると、男は鷹揚おうように笑んだ。

「そうですねぇ。いつまでも居てくださって構わないのですが」

「お断わります」

 真顔で拒否すると、ヴァレンティーンは楽しそうに笑った。

「あの……僕と一緒にいた兵士は、どうなりましたか?」

「あぁ、サリヴァンの御子息でしたかな? 始末したと訊いておりますよ」

 視界が真っ暗になった。
 嘘だ――機能を停止した思考回路に“始末した”という言葉が重石のように沈み込んでいく。
 俄かには信じ難い。
 サンマール広場で笑いながら、歩いていたではないか。串焼きにサンドイッチを頬張って、露店を眺め……記念にと、スタンプシートをもらったのだ。
 訊き違えたのかもしれない。縋るようにヴァレンティーンを見ると、希望を打ち砕くかのように、ゆっくりと首を左右に振った。

「嫌だ……そんな……ユニヴァース……」

 声は潤みかけた。震える手で口を押える。そうでもしないと、喚き散らしてしまいそうだった。

「そんなにお悲しみになるのなら、どうして護衛も連れずに、宮殿を飛び出したのですか?」

「――!」

 言葉の刃が、ぐさりと胸に突き刺さる。本当に、血が流れた気がした。
 悔悟かいごの念が胸の内に渦巻く。
 認めたくないが、この男のいう通りだ。どうして勝手に、抜け出してしまったのだろう?
 光希のせいでユニヴァースは死んだ。
 彼一人なら、いくらでも逃げ切れたはずだ。あの時、光希がもっと速く走れたら! 剣を振るうことができたら――!
 ぼろぼろと涙が零れて、手に落ちる。もう気丈でなんていられない。

「……っふ……ぅッ」

「お優しいですね、花嫁……泣くほどお辛いですか?」

 返事をする気力もなく、光希はただ背を震わせた。

「勘違いされているようですが、私は、彼が死んだとはいっておりませんよ」

「ッ!?」

 どういうことだ? 勢いよく振り向いた光希は、探るような眼でヴァレンティーンを見た。男は愉快そうに眼を細めた。

「濡れた瞳もまた美しい」

「生きてるの?」

「さぁ? どう思われますか?」

 光希の眼が据わった。

「悋気された瞳もまた……」

「答えろ」

「御意。馬は始末したが、彼には逃げられたと訊いております。運がいいこと」

 逃げられた? ということは、生きているのか?
 この男は、光希が勘違いしていることを知りながら、絶望する様を見て嗤っていたのか?
 腸が煮えくり返るとは、こういうことか――気付けば杯を手に取り、男に向かって放っていた。
 ガシャンッ!
 硝子は鉄柵にあたり砕け散った。欠けた破片で怪我の一つもすれば良かったものを、男は愉快そうに哄笑こうしょうしている。悪趣味にもほどがある。
 しかし、燃えるような怒りの次には、深い安堵が訪れた。生きていてくれた……

「……僕がもし、宮殿の外に出なければ、誘拐はしなかった?」

「そうですね。今日はしなかったでしょう」

「僕を誘拐したこと……誰にも伝えていないのですか?」

「いいえ、とうに宮殿に知らせましたよ」

 少しも顔色を変えずにうそぶく。
 薄気味の悪さに、光希は無意識に後じさった。この男の余裕は、どこからきているのだろう?