ジュリアスは軍旗を皇帝に捧げたあと、光希を手招いた。
 周囲の視線が一斉に顔に刺さり、離れた所から彼の雄姿を眺めていた余裕は消え失せた。

「おいで、コーキ」

 緊張で動けずにいる光希に、ジュリアスは笑みを閃かせ、手を差し伸べる。周囲の年若い淑女達は色めき立ったが、光希は緊張のあまり手足が同時に出そうな有様であった。
 視界にジュリアスだけを映して、どうにか傍へ寄ると、労わるように腰に腕を回された。
 大勢が見ている前だというのに、彼の甘い仕草は相変わらずだ。腰に回された腕をわざわざ解くのもどうかと思い、意志の力で笑みを顔に貼りつけた。
 緊張する光希に、皇帝も皇太子も瞳を和ませて、気さくに笑みかける。視線を交わしただけで、受け入れられている、と安堵にも似た心地を覚えた。

「お初にお目にかかります。偉大なるイスハーク皇帝陛下、アースレイヤ皇太子殿下。僕は、稀代のシャイターン、ジュリアス・ムーン・シャイターンの花嫁ロザイン、光希と申します。アッサラームへのお導きに感謝いたします」

 何度も練習した口上のはずなのに、緊張のあまり、声は少々震えてしまった。

「花嫁。よくぞアッサラームへきてくれた。お会いできることを、楽しみにしていましたよ」

 皇帝は丁寧な口調で光希に語りかけると、大きな手で光希の両手を包みこんだ。光希はすっかり舞い上がってしまった。

「ありがとうございますっ!」

 上擦った声で感謝の気持ちを伝えると、皇帝は鷹揚な笑みで頷いた。隣に立つ皇太子も楽しげに瞳を輝かせて光希を見つめている。

「おめでとうございます、シャイターン。随分と、かわいらしい花嫁を見つけましたね」

「ええ、本当に。砂漠を駆けた甲斐がありました。身に余る幸運を神に感謝しております」

 皇太子の言葉を受けて、ジュリアスは神々しい笑顔を浮かべた。完璧に美しい笑みなのに、なぜか光希は小さな違和感を覚えた。
 ジュリアスは光希のものいいたげな視線を柔らかく受け流すと、挨拶を締めくくるように深く頭を下げた。

「婚礼をお許しいただき、ありがとうございます。後ほど改めてご挨拶に伺いますので、今日はこれで御前失礼いたします」

「うむ。先ずは公宮で疲れをとると良い。数百年ぶりのシャイターンの婚礼を皆心待ちにしておる。祝宴の場でそなたと花嫁に会えることを、私も楽しみにしておるぞ」

 皇帝の前を去ると、後ろに控えていた各隊の大将達が皇帝の前に跪いた。
 背中に皇帝の労いの言葉を聴きながら、光希はようやく自分の役目を終えたのだと感じた。一刻も早く人目のない部屋で寛ぎたかったが、その後の道のりの長いこと。
 宮殿の中央玄関へ向かうと、恭しい待遇に思わず目を瞠った。
 大勢の召使達が、たった二人を迎える為に、左右に列をなして頭を下げている。
 花びらの散る赤い縦断の上を歩きながら、首が痛くなるほどに天を仰ぎ見た。
 白亜の宮殿はそびえるほどに高い。陽光を弾く金色屋根が眩しい。あの屋根から見下ろしたら、どんな景色が見えるのだろう?
 観音開きの扉が召使の手によって、左右に大きく開かれた。
 内装は異国情緒漂う豪華なもので、細部に至るまで意匠の凝らされた幾何学的な装飾で彩られていた。
 室内は自然の光が燦々さんさんと入り込む設計になっており、照明がなくとも十分に明るい。
 中へ入ったあとも、頭を下げる大勢の召使達に迎えられた。
 物珍しげに視線を彷徨わせる光希と違い、ジュリアスは前だけを見て歩く。慣れた足取りで石柱の回廊を渡り、幾度も扉を抜けてゆく。
 やがて門兵の数も次第に減り、最後は女官が扉を開いてくれた。

「「お帰りなさいませ、シャイターン」」

 扉の向こうから、十歳前後の子供と二十代後半の青年が現れた。
 子供の方は裾の長い神官服に身を包んでおり、青年は白銀の甲冑をまとっている。
 跪いて俯いているので顔は判らないが、どちらも髪色はここでは一般的な灰銀色をしている。子供は淡い灰銀髪を肩で揃えており、青年の方は硬質な灰銀色の短髪だ。随分と年の離れた組み合わせである。
 視線が合わないのをいいことに、二人を見下ろしていると、立ちなさい、とジュリアスは声をかけた。
 無駄のない動作で二人は立ち上がると、じっと灰青色の瞳で光希を見つめた。
 予想通り、二人とも非常に端正な顔立ちをしていた。子供の方は精巧な人形のようだ。

「紹介しましょう。彼はナフィーサ・ユースフバード、公宮に仕える神官の一人で、光希の身の回りの世話を任せてあります」

 少年は恭しくお辞儀をすると、幼い容貌に反する明晰な口調で告げた。

「本日より、シャイターンの花嫁にお仕えさせていただきます。ナフィーサ・ユースフバードと申します。どうぞナフィーサとお呼びください」

 光希も深々と頭を下げると、それから、とジュリアスは騎士を指した。

「彼はルスタム・ヘテクレース、光希の護衛を務める神殿騎士です。二人とも私の選んだ身元の確かな従者ですので、何かあれば安心して彼等に声をかけてください」

 甲冑に身を包んだ騎士は、礼節に則った敬礼で応えた。

「あ……僕は光希といいます。これからお世話になります。よろしくお願いいたします」

「お仕えすることをお許しいただき、恐悦至極。我が身に余る光栄に存じます。全身全霊をけて、お仕えさせていただきます」

 年にそぐわぬ、真剣な眼差しでナフィーサは光希を仰いだ。年下の子供に気圧され、光希は咄嗟に返す言葉が見つからなかった。

「長きに渡る遠征で、さぞお疲れでしょう。お部屋の準備ができております。どうぞこちらへ」

 緊張を解すように、ルスタムに声をかけられた。光希が助かったといわんばかりに笑顔で首肯すると、彼等は背を向けて歩き始めた。

「それにしても、ジュリ。ここは玄関からとても遠いですね……大変そう」

 こっそり囁くと、ジュリアスは微笑を浮かべた。

「大切な公宮ですからね。人の出入りも厳しく制限されています。光希も一人で出入りしてはいけませんよ。私が傍にいない時は、必ず護衛を連れて歩いてください」

「護衛……ジュリにも護衛がいますか? ジャファール達はもう僕の護衛ではない?」

「常時ではありませんが、隊を動かす時は私にも護衛がつきますよ。ジャファール達には、交代で休暇を取ることを許しています。遠征から戻ったばかりですしね。彼等に会う機会は今後減るでしょうけれど、少なくとも祝宴の場では会えますよ」

 野営地での生活が終わった今、やはりジャファール達に気軽に会えなくなるようだ。慣れ親しんだ人間と疎遠になるのは寂しい。
 ふと、ジュリアスとは一緒にいられるのだろうか、と今更ながら一抹の不安を覚えた。

「ジュリはここで暮らすでしょう……?」

「ええ、もちろん。光希を迎えたのですから、仕事が終わればここへ帰ってきますよ。しばらくは、早めに切り上げて帰るつもりです。夜は一緒に過ごしましょうね……」

 艶めいた流し目を送ると、ジュリアスは素早く光希を引き寄せ、頬に口づけた。