『ウソだろ……』

 茫然と呟く光希を見て、ルスタムは思案げに口を開いた。

「殿下、ご心配には及びません。シャイターンの妃候補に公宮入りした貴人はいらっしゃいますが、室を与えられた姫は一人もいらっしゃいません。ご幼少のみぎりから、アッサラームでお過ごしになるよりも、砂漠を駆けていらっしゃるような方でしたから、そもそも公宮に立ち寄られる暇も殆ど無かったのです」

「知りませんでした……ジュリにも女性の、恋人? がいるんですね……」

 衝撃のままに呟くと、ルスタムの顔に焦燥が浮かんだ。

「いいえ殿下、恋人ではございません。シャイターンのご意志とは関係なく、姫君達の方からお家の為に、と公宮入りを希望されるのです」

「ジュリの姫って……どれくらいいるんですか?」

「三百人はいらっしゃると思いますが、ご心配は無用です。どれだけ姫がいようとも、殿下は唯一にして絶対のシャイターンの花嫁ロザインなのですから」

 宥めるようにルスタムは言葉を続けるが、彼の声はどこか遠いところから聞こえてくるようだった。耳朶の奥に、“三百人”という言葉がこだましている。
 この公宮に、ジュリアスの相手が三百人もいるという事実に、光希は打ちのめされた。

「どうか、ご安心ください。殿下は三千人からなる公宮の頂点にいらっしゃいます。どんなに高貴な美姫であろうとも、御身を前にすれば一様にひざまずき、殿下がお許しにならなければ、お声をかけることすらできないのです」

「はい……」

 魂の抜けきったような、渇いた声で相槌を打った。

「シャイターンが花嫁を差し置いて、他の姫にお心を向けることなど、万が一にもございません。決してこの場限りのお慰めではなく、事実にございます。既に降嫁の決まった姫君も幾人かいらっしゃいますし、これからも公宮を出ていかれる方は増えるでしょう」

「ありがとうございます、ルスタム。教えてくれて……公宮に、これほど多くの女性がいるなんて、僕は全然知りませんでした」

 まだ混乱しているが、知らないよりかはマシだと思えた。

「殿下……公宮についてあまりご存じではなかったのですね。ここには昔から独特の秩序があり、長い歴史もございます。良ければきちんとご説明いたしますが、一度お邸にお戻りになりますか?」

「いいえ、あとでお願いします。このまま庭園を歩いてみてもいいですか?」

 光希の顔に目を注ぎ、ルスタムは思案げに沈黙したが、すぐに恭しく頭を下げた。

「かしこまりました」

 公宮のそのに足を踏み入れると、気づいた者達は、膝を折ってお辞儀をした。彼等は光希が遠ざかるまで、そのままの姿勢で動かない。

「殿下、頭を下げる必要はございません」

「あ、はい……」

 お辞儀されると、つい会釈してしまう。たしなめられて、素通りするようにしたが、傲慢に映らないか心配になった。
 さざなみが広がるように、小声で囁く女達の姿が増えてゆく。
 被害妄想かもしれないが、こちらを見てひそひそと囁かれると、誹謗中傷されているような気がしてしまう。そう思うにつれて、足取りは重くなった。

「殿下?」

 とうとう立ち止まってしまった光希を見て、ルスタムは不思議そうに声をかけた。
 気分が悪い。もう帰ろうか……迷っていると、柳のような美女が、従者を連れてこちらへ近寄ってきた。
 灰銀の長い髪が風に揺れて、妖精の女王のような佇まいだ。
 知らず目を奪われて彼女の歩みを待っていると、目が合うほどに近づいたところで、麗貌は儚げに笑みを刻んだ。
 空恐ろしいほどの美貌に、言葉も忘れて、見入ってしまう。これまでお目にかかったことのない、絶世の美女だ。

「ごきげんよう、シャイターンの花嫁。お会いできて光栄に存じます。私はリビライラ・バカルディーノ、アースレイヤ皇太子の西妃レイランにございます。どうぞよろしくお願いいたします」

「あ、貴方が……僕は、シャイターンの花嫁、光希と申します。アッサラームへのお導きに感謝いたします」

「我等がシャイターンの花嫁を公宮にお迎えすることができて、心から嬉しく思います。新たな公宮の主に、宮女一同、誠意を尽くしてお仕えさせていただきます。何なりとお申しつけください」

 リビライラが優雅に膝を折って宮廷挨拶をすると、遠くから様子を窺っていた女達も、その場で同じように深く伏せた。
 光希も右手を肩に置いて腰を曲げる正式なお辞儀をする。ルスタムやリビライラの従者達は一歩下がったところで膝をついて控えていた。
 暫し庭園一帯に、厳かな空気が流れる。
 しかし、一向に顔を上げる様子のないリビライラに、光希はどうしたものかと狼狽え始めた。

「殿下……“天は従順を嘉(よみ)したもう”とおっしゃりなさい」

 親切なルスタムの助言を受けて、光希はとってつけたように、天は従順を嘉したもう、と口にした。
 必要な手続きだったようで、ようやくリビライラは顔を上げた。青灰色の瞳を和ませて、美しい笑みを閃かせる。

「アースレイヤ様からお聞きしました通り、とてもかわいらしい方ですのね。可憐な花嫁をお迎えになって、シャイターンもさぞお喜びでしょう」

「え……」

「ここは陽射しがございます。よろしければ四阿あずまやで少しお話しされませんか? 美味しいお茶をご用意しておりますのよ」

「えっと」

 判断に迷ってルスタムの顔をうかがうと、肯定するように頷かれたので、光希はリビライラに視線を戻した。

「判りました。人と会う約束がありますので、少しでしたら……」

 ぎこちない笑みを浮かべると、リビライラは花が綻ぶようにほほえんだ。