アッサラーム夜想曲

『幾千夜に捧ぐ恋歌』





 ― 『幾千夜に捧ぐ恋歌・一』 ―




 大戦から四年。
 新年を迎えたクロガネ隊の工房では、朝早くから掃除当番の隊員が床を磨いていた。中には、仕事の準備に取り掛かる者もいる。卸棚に並ぶ品を帳簿につけたり、作業机を片付けたり。クロガネ隊のいつもの朝の風景だ。

「お早うございます!」

 扉を開けて元気のいい挨拶をした少年――スヴェンは、絶賛片想い中のケイトの姿を見つけて、瞳を輝かせた。

「ケイト先輩、何か手伝えることはありますか?」

「ありがとう。俺は大丈夫だから、ノーア達に訊いてみて」

「ノーアとパシャなら平気です。もう訊きました。なので、遠慮せずに何でもおっしゃってください!」

「俺は平気だから、他の人に声をかけてみてくれる?」

「はぁい……」

 恋する少年は、少々がっかりしたように返事をした。彼がケイトにあしらわれて肩を落とす姿は、工房では日常の光景である。片恋は今のところ見込み薄いのだが、スヴェンは何度袖にされても諦めない。
 昼休の鐘が鳴った後、ケイトが一息ついている様子を見て、スヴェンはいそいそとケイトの傍に寄った。近くにいた光希は、つい手を休めて二人に視線を注いだ。

「ケイト先輩、好きです! 恋人になってください!」

「すみませんが、無理です」

 にべもなくケイトがいうと、周囲からささやかな笑いが起きた。悪意あるものではない。スヴェンは真剣そのものなのだが、猪突猛進な少年が空回る姿につい笑みを誘われるのだ。

「あぁッ! 俺の溢れんばかりの愛は、出口を求めて溺れています。このままでは、難破してしまう! ケイト先輩、助けてくださいッ」

「うーん、浮き袋はどこかなぁ」

 工房を見渡すケイトに、はい、と光希は粘土の入った麻袋を渡した。ケイトは笑顔で礼をいうと、それをスヴェンに差し出した。スヴェンは両手に顔を沈めると、ワッと泣き真似をした。

「酷い、先輩! これじゃ水を吸って余計に沈んでしまいますよ! 責任をとって、溺れた俺を蘇生してください」

「え?」

 ケイトが何かをいう前に、スヴェンは腕を回してケイトに抱きついた。捨てられた子犬の風情で、上目遣いに仰ぐ。背伸びをして、顔を近付けようとすると、ケイトは嫌そうな顔でスヴェンを引き剥がした。

「暑苦しい。抱きつくんじゃない」

「先輩ぃ」

 積極的だなぁ……と他人事のように光希は眺めていたが、当事者であるケイトは違った。

「あのね、スヴェン。こういう風に騒がれるのは、苦手です。俺はスヴェンの気持ちには、応えられないよ。本当にごめんね」

 温厚なケイトにしては、誤魔化さず、はっきりとした口調で告げた。
 工房に沈黙が落ちる。
 これまで、なんだかんだいいながらも、スヴェンの振る舞いを許容してきたケイトだが、ついに限度を振り切ったのだろうか?
 底抜けに明るく前向きなスヴェンも、表情を凍りつかせている。悄然と肩を落として、すみません、と消え入りそうな声で呟くなり工房を出ていった。

「スヴェン」

 後ろを追い駆けようとした光希は、腕を掴まれて振り向いた。ケイトだ。追い駆けるなと視線で訴えられ、言葉に詰まった。
 周囲の隊員達は、互いの顔を見合わせて肩をすくめている。
 最初に動いたのは、同期の少年達だった。心配そうな顔でノーアが、淡々とした顔でパシャが席を立ち、工房を出ていく。彼等の背中が見えなくなると、

「申し訳ありません、殿下」

 ケイトは非礼を詫びてから腕を離した。

「いや。ごめん、僕は追い駆けるべきじゃないよね」

「……」

 ケイトは力なく首を左右に振った。すみません、と力なく返事をする。
 想いを断る方も、しんどいのだ。
 翳った表情を見て、彼にも息抜きが必要だと光希は感じた。ケイトも同じだったようで、休憩に誘うと二つ返事で応じた。
 廊下を抜けて中庭に出ると、殆ど同時に蒼天を仰いだ。

「元気出してね。スヴェンには仲間がいるし、立ち直るよ。ケイトは、いつも通り接すればいいと思う」

「はい……すいません、空気を悪くしてしまって」

「あれはしょうがないよ。ケイトが謝ることじゃない」

 人の心ばかりは、どうにもならないものだ。スヴェンは一生懸命に恋をして、ケイトは受け入れられなかった。
 このまま昼食を食べにいこうと提案すると、ケイトは感謝するように淡く微笑んだ。
 食事をして、雑談しているうちにケイトの気分も上向き、彼の方から工房へ戻ろうと切り出した。
 幸い、工房に漂っていた気まずい空気は、どこかへ流れていた。
 というより、忙しさが増して、それどころではなくなっていた。話しかけるな、という殺伐とした空気をかもして、誰もが仕事に没頭している。
 スヴェンも戻ってきていたが、互いに視線を合わせようとはしなかった。
 慌ただしい一日が過ぎ去り、終課の鐘が鳴ると、ケイトはスヴェンに一言も言葉をかけず、工房を出ていった。
 偶々スヴェンの隣にいた光希は、気落ちしたスヴェンの顔を見て、ぽんと肩を叩いた。なんとも弱り切った顔で、少年は光希を見た。

「はぁ……」

 思わしげにため息をついたかと思えば、机の上に突っ伏す。恋する少年の頭を、光希はぽんぽんと叩いた。

「元気だして」

「……俺は殿下になりたい」

「え?」

「ケイト先輩と仲良くなりたい。少しでいいから、意識して欲しい」

 右頬を机につけたまま、スヴェンは拗ねたように光希を見た。

「まぁ、彼は人見知りするから。最初は僕に対しても、緊張していたよ」

「そうなんですか? 俺にも早く打ち解けてくれないかなぁ……」

「十分、打ち解けていると思うよ。ケイトはスヴェンとはよく喋る方だよ。普段は、もっとずっと口数が少ないから」

「あしらわれているだけです。それくらい、判っています」

「卑屈だなぁ。スヴェンは話しやすいから、ケイトも気軽にいいやすいんだと思うよ」

「でも、迷惑だっていわれちゃったから……」

 唇を戦慄わななかせ、歯を噛みならしてスヴェンはいった。普段は陽気に振る舞っている彼からは、想像できないほど弱々しい姿だ。

「う、ん……毎日工房で顔を合わせるし、きついね」

「全然、諦められる気がしない……」

「元気出して。今度の休みに、ノーアやパシャと気晴らしに出掛けてみたら?」

「ケイト先輩といきたい……」

「うん……」

「想うだけでも、許されないのでしょうか?」

「心は自由だよ。スヴェンだけのものだ」

 スヴェンは小さく頷くと、哀しそうに眉を下げた。

「でも、俺はもう伝えることは許されないんだ……」

 かける言葉を見つけられず、光希は黙していたが、ふと思い浮かんだことを口に乗せた。

「その想いを、綴ってみたら?」

「え?」

「あ、いや……かっとなったり、もどかしい想いで、にっちもさっちもいかない時は、紙に書くといいって、前に友達が話していたことを思い出して」

「手紙で、想いを伝えるのか……」

「ううん、実際に渡さなくていいんだ。書きなぐった後は、敢えて二・三日寝かせるらしい。数日経ってから読み返すと、その苛烈な内容は、とても人に見せる気が起こらなくなるそうだよ」

 と、以前アンジェリカは話していた。やりれきな想いを昇華するのだと。

「なるほど。でも、それでも渡したくなったら、どうするのでしょう?」

「……その時は、渡せばいいんじゃないかな?」

 余計なことをいったかしら。納得を眼に灯すスヴェンを見て、光希は少々不安になった。




『幾千夜に捧ぐ恋歌』


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