アッサラーム夜想曲

『織りなす記憶の紡ぎ歌』





 ― 『織りなす記憶の紡ぎ歌・九』 ―




 時折、断片的な記憶が脳裏を過る。
 見慣れた日本の日常であったり、見知らぬはずのアッサラームの光景であったりと様々だ。
 例えば、暮れなずむ夕暮に立ち微笑むジュリアス。金色に縁取られた輪郭の神々しさ。
 彼が万軍を率いて、敢然と立ち向かう英雄だということを、今は理解している。
 ジュリアスは、絵物語の存在などではなく、熱を持った圧倒的な存在感で光希の傍にいる。

 この世界は、夢ではない。

 地球とは別にある、もう一つの現実世界だ。
 ふとした瞬間に、ジュリアスと過ごした記憶が蘇る。肌を重ねた記憶が脳裏をよぎった時には、倒れそうになった。
 妄想ならまだいい。
 だが、夢の余韻でちりちりと焦げる肌が、あれは現実に起きたことなのだと、光希にいい聞かせているようだった。
 まさか、本当に……?
 何をどうして、そのような事態になったのだろう?
 あらゆる才に恵まれた美貌の英雄と、ごく平凡な自分が、次元を飛び越えて恋仲になる過程が全く想像つかない……
 しかし、対の指輪を持ち、寝食を共にし、キスをする仲なのだ。只の知り合いや、友人では済まされないだろう。
 日を重ねるごとに、このてしない大地に光希という存在が根付いていく。
 朧な想いが形になっていく。
 不思議な感覚だった。
 曖昧な視界が晴れていく安心感の一方で、朧な肉体に血が通い出す不安も募る。
 高校の制服を着た自分の姿が日に日に遠ざかり、黒い軍服を着た自分の姿が鮮明になっていく……

「光希?」

 優しく揺り起こされて、光希は微睡まどろみから醒めた。
 澄んだ青い瞳を見た途端に、心はアッサラームに引き戻される。
 らちもない想いに囚われていた気がするが、ジュリアスの瞳を見ると、あやふやな存在が引き締まる。

「お早うございます」

「お早う」

 寝ぼけている光希と違い、ジュリアスは既に軍服に着替えていた。寝台の上で光希がぼんやりしている間も、彼は手際よく身支度を整えていく。
 玄関まで見送ると、ジュリアスはすぐには出ていかず、光希を振り返った。
 背の高い身体をすらりと伸ばし、凛々しい軍服姿で光希の前に立つ。見惚れて赤くなる光希を見下ろして、彼は優しく微笑んだ。

「ゆっくり過ごしていてください。すぐに戻ります」

『行ってらっしゃい。気をつけて』

 綺麗な顔が降りてきて、慌てて眼を瞑る。光希の緊張を知ってか、かすかな微笑を漏らすと、ジュリアスは頬に優しく口づけた。

 +

 夕食を終えた後、私室に戻ったジュリアスと光希は、テラスで夕涼みを愉しんでいた。
 雨上がりのしっとりとした夜に、ジュリアスは弦楽器を抱えて、メローな旋律をつま弾いている。
 どこか憂愁メランコリックな、異国情緒に富む輪舞曲ロンド夜闇よるやみに溶け込んだ。
 余韻を残して曲が終わると、光希は眼を輝かせて手を鳴らした。

『……上手!』

 素直な賞賛は、在りし日の姿をジュリアスに彷彿とさせた。
 眼を細めて、来し方を懐かしむジュリアスを、光希は不思議そうに見つめ返した。

『ジュリ?』

「いえ、なんだか懐かしくて……」

 沈黙が流れる。
 ぼんやりと青い星を仰ぐ光希の横顔を、ジュリアスはじっと見つめた。
 日頃は、心を紛らわせるように気丈に振る舞っている光希だが、やはりどこか無理をしているのだろう。
 月光をもらい受けて、白い輪郭は青白く照らされている。郷愁を誘われて翳る表情は、もの哀しく、そして美しかった。

「光希?」

 静かに声をかけると、光希は小さく眼を見開いて、思い出したようにジュリアスを見た。

『ジュリ……俺は、帰れるのかな? 地球に……』

 戦慄く唇から、かすかな呟き――チキュウ――と聞いて、心臓を鷲掴まれた。

 青い星へ還る?

 腰を引き寄せて顔を覗きこむと、夜空のような瞳は、戸惑ったように揺れた。親指で唇をなぞれば、二人の間に緊張が走る。

「いかないでください」

『ジュリ』

 腕を引いて抱き寄せると、光希は身体を硬くした。腕の中で抗われて――

『んっ!?』

 気付けば、唇を重ねていた。
 柔らかな唇に、心が甘く痺れる。啄むような口づけを繰り返すと、うっすら唇が開いた。顔を傾けて深く口づけていく。

『……ッ……んぅ」

 舌を絡ませると、光希は甘い吐息を漏らした。限界の縁で堰きとめている理性が、崩壊しかけている。
 少しだけ顔を離すと、黒い瞳にうっすら涙の幕が張っていた。目元を指でなぞると、光希は逃げるように視線を泳がせた。

『な、なんで?』

 頬を上気させて、唇は扇情的に濡れている。下肢の昂りを感じながら、ジュリアスは手すりを背に光希を追い詰めた。

「……思い出せませんか? こうして何度も、私に触れられたことを」

 頬を手の甲で触れると、光希は、慄いたように身震いした。

『なんか、恐いんだけど……』

「光希」

 怯えたように顔を背けられた刹那、殆ど衝動的に唇を奪った。

『んッ』

 口内を貪り、思うがまま唇を奪う。とても止められない――甘い吐息を味わいながら、己がいかに飢えていたかを思い知った。

『ん、ぅ』

 唇の合間から、いつまでも聞いていたいような、艶めいた吐息が漏れる。心臓は激しい鼓動を打ち、全身の血は瞬く間に熱くなる。
 ほんの少し触れただけで、たがが外れた。腰を押しつけると、光希はびくりと肩を撥ねさせた。

『や……放せッ』

 抵抗されるほどに、飢えが募る。
 首すじに吸いつくと、甘い声で啼いた。光希が怯えている、やめなくては――頭の片隅で理性が囁いても、もろい自制の壁は、肌に触れるほどに罅割れた。

「光希が忘れてしまっても、貴方は私の花嫁ロザインだ」

『……ッ』

 朱くなった耳朶を甘噛みすると、光希は息を呑んだ。
 あぁ、また。怖がらせている。逃げようと光希が顔を逸らす。駄目だ――逃がしてあげられない。

『ン――ッ』

「ッ!」

 舌を噛まれて、痛みに顔を離すと、蒼白な顔で光希はこちらを見ていた。幾らか冷静になり、そっと手を伸ばすと、光希はびくりと肩を撥ねさせた。

「……拒まないで」

 涙に濡れた黒い眼を見ながら、額に口づけた。

『どうして……』

 互いの眼を見つめたまま、しばらく動くことができなかった。
 伝えたい想いがあるのに、言葉が見つからない……
 もどかしさを噛みしめながら、ジュリアスは拳を硬く握りしめた。
 やがて、諦めたように傍へナフィーサを呼んだ。

「……光希を休ませてあげてください」

 すれ違う瞬間、安堵の表情を浮かべる光希を視界の端で捉えて、胸に切なさがこみあげた。
 ナフィーサに寄り添う姿を見ていられず、眼を逸らすジュリアスを、今度は光希が切なげに見ていることには、ジュリアスは気付いていなかった。




『織りなす記憶の紡ぎ歌』


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