アッサラーム夜想曲

『織りなす記憶の紡ぎ歌』





 ― 『織りなす記憶の紡ぎ歌・四』 ―




 蒼とした夜。
 静かに眠る光希の傍に、ジュリアスは寄り添い、離れられずにいた。光希は三日前に倒れてから、懇々と眠り続けている。身体に異常は見られないが、一向に眼を醒まさないのだ。
 このまま眼を醒まさないのでは――そんな不安に駆られてしまう。
 まんじりともせず夜を明かし、四日目の朝。
 光希はようやく眼を覚ました。視点の定まらぬ様子でぼんやりと天幕を見渡し、ジュリアスに気付くや、極限まで黒い瞳を見開いた。

『えっ?』

「あぁ、良かった」

『え……』

 何をいわれているのか判らない。そんな顔で、光希はジュリアスを凝視している。只ならぬ様子に、ジュリアスは眉を顰めた。

「気分は? 喉が渇いているでしょう?」

『……誰?』

 かすかな呟きは、公用語ではなかった。手を伸ばして髪に触れると、光希はぎょっとしたように眼を丸くした。どうも様子がおかしい。正体不明の違和感を覚えながら、ジュリアスは唇を開いた。

「本当に心配しました。三日も眠っていたのですよ」

 檸檬水を注いだ杯を渡すと、光希はぎこちなく口に運んだ。表情を和らげて何かを呟いたが、訊き取ることはできなかった。

『あの、ありがとうございます。ここは……?』

「光希? ……どうして、天上の言葉を?」

 訝しんだジュリアスは、顔を寄せて黒い双眸を覗きこんだ。丸く見開かれた眼に、驚愕と戸惑いが浮かんでいる。亡霊でも見たかのような顔で、光希は唇を開いた。

『俺の名前、どうして知ってるんですか?』

「光希? 一体どうしたのですか?」

『誰なんだ?』

 茫然自失したように天上の言葉を呟く光希を見下ろしながら、ジュリアスは嫌な胸騒ぎを覚えた。

「祈祷の途中で、倒れたことは覚えていますか?」

『ここは、どこなんだ……?』

「……私が判りますか?」

 不安そうに、黒い双眸が揺れる。
 警戒するような眼差し、覚束ない様子で室内を見渡す光希を見て、遠い記憶が脳裏をよぎった。
 オアシスで初めて出会った時、光希は不安そうにジュリアスを仰ぎ、天上の言葉を喋った。あの夜を思い出す。

「意識が混濁しているのか……三日も眼を覚まさなかったから。サリヴァンを呼んできます」

 腰を上げようとするジュリアスの袖を、光希は切羽詰まった表情で掴んだ。

『English? Who are you? I……やっぱり、英語じゃないのかな?』

「……大丈夫。ここにいます」

 不安そうな光希を見て、立ちあがりかけていたジュリアスは再び腰を下ろした。座ったまま、天幕の向こうに呼びかける。すぐに応じるナフィーサに、サリヴァンを呼んでくるよう伝えた。
 間もなくやってきたサリヴァンは、一通り診断を終えると、難しい顔で小さく首を振った。

「一時的なものかは不明ですが、殿下は記憶を失くされていらっしゃる」

「記憶を?」

「然様。公用語も理解されていない。伴侶である貴方のことも、認識できていないご様子。ですが、思考はしっかりしていらっしゃる……まるで、初めてお会いした頃に退行されたようですな」

「身体に異常はないのですか? 祈祷の影響とかしか思えません。あの時、何があったのです?」

「聖句を諳んじている者で、他に昏倒した者はおりません。儀式は滞りなく行われました。殿下お一人が、シャイターンの啓示を受けたのです」

「どのような声を訊いたのだろう……」

「神のみぞ知ることでしょう」

 サリヴァンは判らない、というように首を振った。
 身体に異常はなくとも、一時的な記憶障害をきたしているようで、ジュリアスは元より、公用語まで失くしているという。
 不安そうにしている光希を見て、ジュリアスはいったん天幕から人を下がらせた。

「光希の好きな、桜桃の桜漬けですよ」

 甘味を短剣で裂いて口に運ぶと、光希は戸惑った顔をしながらも、おずおずと口を開いた。

「美味しい?」

『……ありがとうございます。「おいしい」』

 咀嚼を終えると、光希は控えめに微笑んだ。後半を、ジュリアスの言葉を真似て返す。
 檸檬水を杯に注いで手渡すと、申し訳なさそうに光希は会釈をした。

『すみません、何から何まで……あの、俺は光希といいます。俺を知っているようだけれど、貴方は? 名前は?』

 胸に手を当てた光希は、自分の名前を繰り返した後に、問いかけるようにジュリアスを見て首を倒した。
 冷水を顔に浴びた気分で、ジュリアスは一瞬言葉に詰まった。が、すぐに衝撃をやり過ごして笑みを浮かべる。

「……私の名前は、ジュリアスです。どうぞ、ジュリと呼んでください」

 名を繰り返すと、光希は理解を眼に灯して、ジュリ、と呟いた。

『ジュリ、ありがとうございます』

「はい」

 笑みかけると、光希は照れたように視線を逸らした。愛しさがこみあげて、つい手が伸びる。頬に触れると、光希はびくりと肩を撥ねさせた。手を離そうか躊躇するが、もう少しだけ、と指を滑らせる。柔らかな唇に親指で触れると、光希は途端に身体を固くした。

「……すみません。驚かせてしまって」

『え、と……』

「空腹でしょう? 何か食べましょう」

 空気を変えるように、食事する手ぶりを見せると、光希は腹を手で押さえて、そういえば、という顔をした。気まずそうに頷く様子を見て、ジュリアスは微笑んだ。

「遠慮はいりませんよ」

 料理を運ぶ召使達を、光希は物珍しそうに眺めていた。
 言葉を発しない光希を見て、ナフィーサは給仕の手を止めた。心配そうに眉を寄せる。

「オアシスは蘇ったというのに、殿下の身にこのような難が降り懸かるとは。記憶を失くしてしまわれるだなんて……」

『えっと……?』

 言葉をかけられて、光希は戸惑ったように会釈をした。視線を外さずに、じっとナフィーサを見つめる。その様子に、なぜかジュリアスの心は騒いだ。

「光希」

 黒い双眸がこちらを向くと、肩を抱き寄せてナフィーサから遠ざけた。

「ナフィーサ」

「はい」

「呼ぶまで、下がっていてください。二人で過ごしたい」

「かしこまりました」

 丁寧に頭を下げたナフィーサは、静かに外へ出ていく。
 光希と親しい間柄であっても、この状態の光希の傍に、ジュリアス以外の誰かを寄せるのは嫌だった。
 記憶をなくしている光希に、動揺を与えたくないのもそうだが、他の誰かに真新しい関心を覚えるのを見たくないからだ。

「……本当に、忘れてしまったの?」

『……?』

 俄かには信じられず、幾つか簡単な公用語を口にしてみたが、光希は芳しい反応を示さなかった。
 不安そうな、申し訳なさそうな顔で首を振るばかり。頻繁に口にする、ワカラナイ、という響きを、そういえば昔は何遍も訊いたことを懐かしく思い出した。
 天幕で拙い会話を続けるうちに、陽は傾いていく。
 空は茜色に染まり、やがて裳裾もすそに藍色が広がる。夕闇が色濃くなるにつれて、青い星が姿を見せた。

『嘘だろ……』

 天幕の外に出た光希は、砂漠に膝をついて、幽鬼のような顔で空を仰いだ。

「光希」

 名を呼んでも、反応を示さない。魂を吸い取られたような顔で、ひたすら空を――青い星を仰いでいる。

「光希!」

 不安を掻き立てられ、両肩を掴むと、黒い眼はようやくこちらを向いた。

『なんだって、こんな……』

「光希……」

『マジで、どこなんだここ? どうなってるんだ!?』

 望郷を誘われたように空を仰ぐ姿を見て、ジュリアスは表情を凍らせた。
 再び戻された黒い瞳が、不安そうにこちらを仰ぐと、急速に思考は回転を始める。霞がかった頭に、信じたくはない事実が否応なしに浸透していった。
 老師のいう通り――光希は、ジュリアスを忘れている。オアシスで出会い、アッサラームで過ごしてきた時間の全てを、失くしてしまったのだ。

 まるで、蘇ったオアシスの代償に、光希は記憶を失くしたように思えた。




『織りなす記憶の紡ぎ歌』


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