アッサラーム夜想曲

『名もなき革命』 - エステル -





 ― 『名もなき革命・三』 ― エステル




 ザインに到着した翌朝。
 黎明の空の下、砂漠の彼方に穏やかではない武装集団――革命軍が現れ、野営地に小波のように緊張が走った。
 花嫁ロザインの休む天幕に、声をかけることを躊躇するエステルの横で、ローゼンアージュは素早く中へ入った。躊躇っている場合ではない。エステルも彼に続くと、花嫁を天幕から連れ出した。
 革命軍の中心と思わしき男は、花嫁との対談を望んだ。
 花嫁を危険に晒すわけにはいかない。到底聴きれられぬと全員が思ったが、花嫁の強い意志により、周囲は動いた。おっとりした花嫁が、あのように喝を飛ばす姿を、エステルは初めて目の当たりにした。

「アルスラン! 彼を連れてきて」

 花嫁が命じると、振り向いたアルスランは舌打ちした。不遜な態度に眼を丸くしたエステルであったが、花嫁は気にも留めずこちらを向いた。

「ナフィーサ、アージュ。僕は彼と話したい。お願い、力を貸して」

 揺るがない信頼の眼差しで、花嫁はローゼンアージュとナフィーサを見た。二人は、その期待に即時に応える。
 名を呼ばれなかったことを拗ねたりはしないが、互いに信頼し合う彼等の姿は、エステルの眼に眩しく映った。
 作戦を知り、アルスランは夜叉のような顔でやってきた。西で野営の指揮を任されている彼は、天幕の影に花嫁を引き込むと、今にも掴みかからんばかりに詰め寄った。

「危険です」

「彼は味方なんです」

「証拠は? 貴方を危険に晒すわけにはいかない」

「シャイターンの思し召しですッ!」

「――ッ、いいから、隠れてろ!」

 彼は一瞬、あろうことか“馬鹿”と言いかけた。
 先ほどは不遜と思ったけれど、強い口調の裏には、花嫁に対する思い遣りが感じられる。粗暴な言動も、積み重ねてきた信頼があればこそか。

「僕は彼に会う為に、ここまでやってきたと言ってもいい! 信じてッ!!」

 花嫁は、アルスランのくろがねの右腕に触れて、叫んだ。
 一騎当千の不屈の将が、即答できずに押し黙る。
 今でも、飛竜隊最速の騎手であるアルスランは、四年前の東西大戦で利き腕を失くし、一度前線を去っている。
 その後、クロガネ隊の活躍により、生ける鉄の腕を与えられ、最前線に復帰した話はもはや伝説だ。
 楽な道のりではなく、様々な困難を伴ったと聞いている。特別な鉄を求めて、花嫁が怪我を負ったこともあった。
 二人の間に見える絆は、そうして乗り越えてきた困難の深さを感じさせる。
 逡巡は短く、アルスランは怜悧な蒼い双眸を、エステル達へ向けた。

「二人を連れてくる。不審があれば、迷わず殺せ」

「「「はっ」」」

 空気は冷たく張り詰めた。
 天幕の準備が整い、花嫁に扮したナフィーサの前に、ヘガセイア・モンクレアと名乗る男が連れてこられた。革命軍の幹部だという彼が明かした真相に、花嫁は動揺を見せたが、実はエステル達はあらかじめ知っていた。
 というのも、花嫁が休んでいる間に、シャイターンに遣わされた哨戒が真相を伝えたのである。
 天幕でアルスランが仕掛けたヘガセイアへの詰問は、情報を得る為ではなく、彼がどこまで把握しているかを測る為であった。
 一通り話を聞き終えた後、アルスランの合図で彼等を連れ出そうとすると、ヘガセイアは蹴躓けつまずいた拍子に、天幕の端に立つ花嫁に倒れかかった。
 刹那。
 刃のような風が流れる。
 花嫁の身体に触れる前に、ローゼンアージュは鋭い掌底しょうていをヘガセイアの鳩尾に入れた。

「ぐ……っ」

「アージュッ!!」

 呻いた長身は宙に浮き、天幕を揺らしてくずおれた。苦しげに呻く身体を、エステルも容赦なく押さえつける。
 全員が殺気立ち、黒牙がヘガセイアとアークを取り囲んだ。

「何をする!?」

 苦しげに呻くヘガセイアの傍らで、押さえつけられたアークが抗議を唱えた。これまで大人しいふりをしていたが、狙いは花嫁か?
 意志疎通は皆無であったが、この時は不思議と呼吸が合った。
 示し合せたように、ローゼンアージュが背後からヘガセイアを拘束し、その隙にエステルはヘガセイアの裾を捲り上げた。
 足首まで覆う長衣がめくれて、細く弱った脚が覗いた。左脚を庇う仕草は、演技ではなかったらしい。

「エステルッ! アージュッ!!」

 主の鋭い叱責の声に、エステルは咄嗟に手を離した。青褪めた顔で、その場に跪く。
 しかし、親衛隊隊長は手を離しはしたものの、警戒は解かずにヘガセイアと対峙した。その姿を見て、エステルは己の失態を悟った。叱責に怯んで、不審と思った相手への警戒を忘れるとは!

「乱暴はいけない!」

 気遣う花嫁と、その声に従う周囲を見てとり、ヘガセイアは苦痛も忘れて眼を瞠っている。

「いや、今のは、私がいけなかった……っ」

 思い出したように、苦痛の表情を浮かべるヘガセイアを、花嫁は自ら助け起こそうとした。それよりも早く、ローゼンアージュがやや乱暴にヘガセイアを助け起こす。
 今の一件で、ヘガセイアは紗の向こうより、本物の花嫁に気を取られてしまった。

「待て」

 アルスランの静止を無視して、花嫁は覆面を下げた。
 特異な白い肌、闇夜のように黒い髪と瞳を見て、ヘガセイアとアークは絶句した。
 というより、全員が絶句した。
 花嫁だけは平静に、ヘガセイアの傍へ寄ろうとする。慌てて止めようとするエステル達を、彼は手で制した。
 ごく近い距離で顔を覗きこまれたヘガセイアは、緊張気味に背筋を伸ばしている。

「貴方を信じます。貴方は、リャンを助ける存在だ」

 花嫁は、天啓を受けたかのように、確固たる口調で告げた。

「殿下。根拠は?」

 投げやりな口調で応じたのは、アルスランだ。演技も無駄と知ってか、口調も普段と変わりない。
 ヘガセイアは我に返ると、勢いよく首を縦に振った。不自由する脚でぎこちなく跪き、一縷いちるの希望を託すように花嫁を仰いだ。

「ありますッ!! 証言をしてくれる者が、ザインで待っております」

「リャンが殺されるのは、いつですか?」

「今日の昼には」

「僕もリャンを助けたいのです。彼の所に、案内できますか?」

「はいッ!!」

「殿下……」

 絶望的に呆れを含んだアルスランの呟きは無視して、花嫁はヘガセイアにしっかりと頷いてみせた。

「危のうございます」
「殿下!」
「殿下。シャイターンはここで待てと――」

 相次ぐ懸念の声を、神秘の黒い瞳は一瞥で黙らせた。

「誰か、すぐにジュリに知らせてください。僕はヘガセイアと先に行く」

「「殿下」」

「今、この場で、最終決定権を持っているのは僕です」

 決然と告げる花嫁を見て、周囲は言葉を呑み込んだ。だが、アルスランだけは射抜くように見下ろしている。

「……ゴダール家が抗争を仕掛けると、夜半に伝令が知らせました。リャンが革命軍だとも。ですが、街は間もなく封鎖されます。ここで、シャイターンの指示を待つべきです」

 至って冷静に告げるアルスランを見上げて、花嫁は苦しそうな顔をした。

「伝令? ジュリはなんてっ?」

「殿下は、ここで待つようにと。ムーン・シャイターンは最悪の場合、連合軍と共にザインに侵入する可能性があると」

「そんな……早く行かないと、リャンは……ッ」

「落ち着け、落ち着いてください。彼の救出についても、然るべき専任が編隊されています」

「本当に? ……じゃあ、どうして彼が刑具にかけられる光景を、僕は何度も……アルスラン、やっぱり僕を連れて行って」

「できません」

「お願い、力を貸して!」

 緊迫した空気の中、二人は暫し睨み合った。やがて、諦めたように息を吐いたのはアルスランの方だ。

「……判りました。殿下に従います」

 渋面で告げるアルスランを、花嫁は、花が綻ぶような笑みで見上げている。
 この局面で彼が折れたことに、エステルは驚きを隠せなかった。権威に従ったのではない。花嫁の寄せる信頼に、応えたのだ。

「アージュ、エステル。さっきは、怒鳴ってごめん。しっかり護衛してくれて、ありがとう」

「――ッ、いえ!」

 花嫁は優しくも凛々しい顔で微笑むと、身支度を整えるべく天幕に戻った。感動の余韻から我に返ると、ローゼンアージュと眼が合った。

「あ……あの、先ほどは沈着冷静な対応、見事でした。咄嗟に動けなかったことを、反省しております」

 一息に言い終えると、我が身の至らなさが気恥ずかしくなり、つい視線を逸らした。
 静寂が流れ、様子が気になり顔を上げてみると――彼は、エステルを見ていなかった。干したなつめやしの実を齧っている。持ち歩いているのだろうか……?
 不思議すぎる。例え月日を重ねたとしても、彼の心中を読める日など、永遠に来る気がしないエステルであった。




『名もなき革命』 - エステル -


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