アッサラーム夜想曲

『名もなき革命』 - エステル -





 ― 『名もなき革命・一』 ― エステル




 五歳で親元を離れ、大神殿に預けられた。
 四年が過ぎた頃。声の才を見出され、戦災孤児のカーリーが聖歌隊にやってきた。三つ年下の小さな子で、大きな瞳には不安がいっぱい。守ってあげなくては……そう思わせる子供だった。
 それからは、いつでも一緒にいた。
 黎明に歌う時も、昼に掃除をする時も、夜に食事をする時も、晩祷を捧げる深夜にも……
 厳しい戒律に挫けそうな夜は、身体を寄せ合い、同じ寝台で眠りについた。
 共に学び、成長してゆく――
 同じ時間を共有しながら、カーリーの一歩前を進むことが、あの頃、エステルの誇りであった。
 後ろを振り向いて、追い駆けてくる、一途なカーリーの姿を見るのが好きだった。幼い彼の眼に、自分の姿が英雄のように映ることが嬉しかったのだ。
 けれど――
 玻璃のような声だと、誉めそやされる自分以上に、カーリーは天才であった。才能を花開かせ、聖歌隊の次代を担う歌手として、誰からも注目を浴び始める。
 絶対不変と思っていた二人の関係は、綻んだ。
 成人が近付くと共に、聖歌隊の引退も近付き、エステルは次第に卑屈になった。
 昔は、後ろを振り向いてまで確かめていたのに、いつの間にか、追い駆けてくるカーリーを疎ましいと思うようになってしまった。
 離れた所でしょぼくれて、哀しそうにエステルを見るカーリーを見る度に、このままではいけない、優しくしてあげなくては、何度も自分に言い聞かせた。
 けれど、傲慢で幼い虚栄心が邪魔をする。
 エステルが聖歌隊の服を脱ぐ時、カーリーはまだ十歳。彼は、これから聖歌隊の歌手として、全盛期を迎えるのだ。
 妬ましかった。
 中庭で一人で泣く姿を見ても、思い遣るより、同情を買いたいのかと、苛立ちが勝ってしまう。そんな醜い心を知る度に、胸は潰れそうなほど軋んだ。
 あんなに大好きだった少年を、一方的に、嫌いになってしまった。
 こんなに貧しい心の自分には、天罰が下るに違いない。
 祈りを捧げながら、雷に打たれやしないかと怯えていた。
 出口のない迷路で、もがき、苦しむ中――
 大いなる転機が訪れる。
 初めて観戦を許された、花嫁が貴妃席に立つ暮れの合同模擬演習。
 優雅で力強い剣の閃きに、エステルの眼は釘づけになった。
 今でも忘れられない。
 最終演目で、ユニヴァース・サリヴァン・エルムは、偉大な砂漠の英雄、ジュリアス・ムーン・シャイターンに挑んだ。
 戛然かつぜんと響く、眼にも止まらぬ鋼の応酬。触れ合う刃は、火花を散らした。
 青い閃き。
 シャイターンの振るう圧倒的な神力を目の当たりにして、エステルは感動に打ち震えた。
 だが、何よりもエステルの胸を打ったのは、強大な相手を前に、恐れず、何度でも立ち向かう、ユニヴァースの雄姿だった。
 決着がついて、大歓声に包まれた途端、倒れてしまうんじゃないかしらと思うほど、エステルの心臓は激しく脈打った。
 天上人である花嫁は、抱えるほどの花束を英雄に贈る。感動的で、胸がいっぱいで、清々しい歓喜が、爪先から頭のてっぺんまで駆け抜けていった。
 もう一人の英雄――仰向けに倒れて動かないユニヴァースを食い入るように見つめていると、彼はちゃんと立ち上り、シャイターンに頭を下げた。
 その姿を見た瞬間、心に大旋風が吹き荒れた。我が身に、革命が起きたのである。
 彼の清廉さに比べて、自分はどうだ。
 彼の振り絞った勇気に比べて、自分はどうだ。
 傷ついてなお、彼は勝者に頭を下げた。自分はどうなのだ。
 涙が溢れた。
 自分の中にすくっていた、黒くて醜い心は、涙と一緒に流れていった。
 肩を支えられて会場を下りてゆく、遠ざかる彼の背中を、滲む視界を何度も擦りながら、最後まで見守った。
 澄明ちょうめいな空に誓う。
 立ち止まるのを止めよう。
 幼い日々に卒業しよう。
 彼の背中を目標に励み、いつの日か、彼のように闘技場に立ちたい。
 その日を境に、固執していた聖歌隊への未練は、すっぱりと消えた。心は澄み渡り、歌声からも迷いが消えた。
 避けていたカーリーに、今更どう声をかけようか……迷っているうちに、典礼儀式で、花嫁の前で歌う栄誉を与えられた。
 誇らしく、胸を高鳴らせたものだ。
 名声を欲する時には、なにごとも上手くいかなかったが、苦悩から解放されてからは、進む道が明らかになり、幸せだと感じることが増えた。
 迷うことなく、成人と共にアッサラーム軍へ入隊した。
 報告の機会を窺っていると、花嫁に慰められ、中庭で涙するカーリーの姿を見つけた。
 緊張しながら声をかけると、カーリーは眼を丸くしてエステルを仰いだ。素直なカーリーの眼には、エステルへの変わらぬ愛が浮かんでいた。

「ずっと、冷たくして、ごめんね」

 罰の悪い思いで告げると、カーリーは涙を散らして首を左右に振った。

「殿下と、何をお話ししていたの?」

 何気ない口調で尋ねたが、カーリーは怯んだ。声をかけられた嬉しさと、エステルの機嫌を損ねるのではという恐怖が、同居している顔であった。
 屈託のない笑みを浮かべていた子が、こんなにも悲壮な顔をするようになってしまった。
 そうさせたのは、エステルだ。カーリーにとってエステルは、恐らくまだ世界の全てなのだ。

「ごめんね。大好きだよ!」

 抱き寄せると、カーリーは肩を戦慄わななかせて、強い力でしがみついてきた。

「……っ、ぼ、僕も、エステルが、だいすき……っ!!」

 その後、カーリーは大声で泣いた。あれほど大泣きするカーリーを見たのは、後にも先にも、あの時だけだ。
 拗れた二人の関係は、ようやく元に戻った。
 手を繋いで神殿を飛び出したある日。
 神殿を訪れた花嫁と、入り口ですれ違った。間もなくアッサラーム軍に入隊するのだと、少し誇らしい心地で告げると、

「……そっか。なら、もうすぐ仲間になるんだね。よろしくね」

 彼はどこか寂しげな表情で、微笑んだ。
 微かな違和感を覚えても、黒い双眸に映る誇らしさと、喜びの方が強かった。
 あの当時、ベルシアとの和議に花嫁が苦悩していたことを知らないエステルは、ただ、花嫁に仲間と呼びかけられたことが嬉しかったのだ。

 四年後。エステルは花嫁の武装親衛隊に抜擢される。




『名もなき革命』 - エステル -


prev index next