アッサラーム夜想曲

『偲ぶ夜の憩い』 - サンベリア -





 ― 『偲ぶ夜の憩い・二』 ― サンベリア




 優しい夜。
 澄んだ天空には、数多の星が煌めいている。
 窓辺に座り、夜啼鶯よなきうぐいすの声に耳を澄ませながら、来し方を懐かしんでいると、扉を叩く音に意識を呼び戻された。

「かあさま?」

 開いた扉の隙間から、日向に咲いた花のように明るい笑顔が覗いた。
 老女のマーサを従えて、小鹿のように歩み寄る我が子。息子のアルジュナに、サンベリアは自然と笑みを浮かべた。

「まだ眠っていなかったの?」

「申し訳ありません、姫様。どうしてもお会いになると、ぐずるものですから」

 仕方なさそうな口調には、アルジュナへの慈しみが溢れていた。この善良な女は、昔からサンベリアによく仕え、今でもサンベリアを姫と呼ぶ。
 足元までやってきた小さな体を抱き上げると、アルジュナは悪戯好きの猫のように喉を鳴らして、サンベリアの首にしがみついた。

「私の小さな愛し子。今日は何を学んだの?」

「きょうてんを、読みました。二章まで覚えました!」

「偉いわね。よく励めば、徳のある神官になれますよ」

「がんばります!」

 無邪気に笑う我が子の頬を、サンベリアは愛しげに撫でた。
 親の贔屓目かもしれないが、覚えの良い、敏い子だから、本当に徳を重ねてゆけるかもしれない。
 何十万語にも及ぶ、長い教典の全巻を諳んじることのできる者は、やがて一位神官の資格を与えられる。
 幼少の頃から、類稀たぐいまれな才能と褒め称えられた、ナフィーサやナディア、シャイターンも十歳を待たずして資格を得ている。アルジュナもいずれ、そうした道を歩めるかもしれない。

「はげめば……天使さまに、お仕えできますか?」

「ええ、きっと」

「きよくて、おやさしい、天使さま?」

「そうよ。母様と貴方の命を、御救いくださった、尊くて、お優しい方なの。このご恩はいつか、今生でお返ししなくてはならないわ」

「はい、かあさま」

 間もなくアメクファンタムは成人を迎え、この国の皇太子になる。
 覇権争いから退いたサンベリアに、変わらぬ美貌でリビライラは笑みかける。美しくも冷たい笑みに戦慄はするが、母となった今、リビライラの炎のように苛烈な野心も少しは理解できる。
 彼女の野心の裏には、母としての愛も確かにあると思うから。
 神事の折にたまに顔を合わせると、アメクファンタムは無邪気にアルジュナに声をかける。二面性を持つリビライラだが、見守る眼差しは母のそれであった。
 時間の流れと共に、状況も心情も移ろう。
 清し夜の、慎ましい団欒だんらん
 ずっと憧れていた、この安らぎを授けてくれたのは、かの花嫁だ。牢獄のような公宮から、天使の御業で救いあげてくださった。

「まだ起きているのなら、一緒にお祈りしましょうか」

「天使さまに?」

「そうよ。ザインへお発ちになった、花嫁に……」

 先日、シャイターンと共にザインへ発った花嫁の無事を、毎日のように祈っている。サンベリアが眼を閉じると、アルジュナも瞼を伏せた。

「どうかご無事に、お戻りになりますように……」

「なりますように……」

 復唱するいとけない声を聞きながら、遠く、砂漠の空を翔けているであろう、花嫁の無事を願う。

 どうかご無事に、お戻りになりますように――




『偲ぶ夜の憩い』 - サンベリア -


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