アッサラーム夜想曲

『偲ぶ夜の憩い』 - サンベリア -





 ― 『偲ぶ夜の憩い・一』 ― サンベリア




 今でも、あの頃を夢に見る。
 桜草プリムラの庭を無邪気に駆けて、花冠かかんを編んだ幼い日。もう、二度と戻らぬ、自由の日々。愛しい記憶……
 十五歳。
 恐れかしこみ、足を踏み入れた。
 万華鏡のように、宝石箱のように煌めいて、目にも彩な春風駘蕩しゅんぷうたいとうたる公宮。
 しかし、十数年を過ごしてなお、サンベリアの眼には灰色の世界に映った。
 青褪めた愛が満ちる、欺瞞ぎまんと悲壮に満ちた絶望の世界。永久に抜け出せない、万魔殿パンモデウム
 見えない鎖に繋がれて、もう二度と自由に走れない。
 あの方の眼に、美しく映らずとも一向に構わなかった。美しく咲く花々と、けんを競い、寵を競り合う気持ちは欠片も無い。見劣りする己の容姿に、安堵していたくらいだ。
 それなのに……どうしたことか、彼はサンベリアの元を度々訪れた。
 身籠れば、消される。
 お役目と判ってはいても、とぎは恐怖でしかない。どれだけ甘く優しく抱かれようと、常に死への恐怖があった。
 叶うことならば、公宮を飛び出したい。
 たった一度、決死の覚悟で挑んだことがある。火事を装い、逃げ出そうとしたのだ。
 誰もいなくなるまで隠れていようと、物陰に身を潜めるうちに、白煙に包まれ、意識は遠のいた。
 あの時、曖昧模糊あいまいもこにぼやける意識の向こうで、心に棲むもう一人の私が優しく囁いた。

“死んでもいいのよ”

 それでもいいと思った。
 生き延びたところで、どうだというのだろう。寂寞せきばくの公宮で、変わらぬ恐怖を抱えて生きてゆくだけ……
 けれど、どこからか家人達は集まり、物陰に身を潜めていたサンベリアを見つけ出した。火は広がらず、間もなく消し止められた。
 あの時、死んでしまえば良かったと、後に何度も後悔することになる。
 懐妊――
 何よりも恐れていた事態だ。腹に宿った命に、戦慄が走った。

「殺される……ッ」

 身体は恐怖にこごり、昏い思考の中で“殺される”という、か細い己の声だけが、何度も耳朶にこだました。

「あぁ、マーサ。どうか、誰にも言わないで……!」

「姫様、何をおっしゃいますか! 黙し通せるような場所ではありません。早く、お父君に知らせましょう。必ずバカルディーノ家に話を通してくださいます」

「駄目よ、駄目……あの方には、通用しないわ」

 弱々しく頭を振るサンベリアを、マーサは優しく抱きしめてくれたが……それから先のことは、思い返すのも憂鬱な日々であった。
 生家は喜んだ。不自由ないようにと、細やかに差し入れをし、腕の立つ女中を密かに送ってよこした。
 懐妊を知り、アースレイヤも喜んだ。疑心に満ちたサンベリアの眼にも、澄んだ笑みに映ったくらいだ。
 しかし、リビライラを思う度に、心は悲鳴を上げそうなほど軋んだ。

「いけませんよ、大事な身体なんですから……きちんと食べないと」

「消化にいいものを運ばせましょう」

 合同模擬演習の席で、リビライラが横から果実を進めれば、反対側からアースレイヤも別のものを勧める。
 霜のように冷たい絶望と恐怖を眼の端で見やりながら、震える手を伸ばした。滑稽なほど怯えるサンベリアを見て、残酷な二人は愉しんでいた。
 顔に綺麗な笑みを貼り付けていても、冷めた眼は真実を雄弁に物語る。

“貴方が邪魔なの。消えてくださる?”

 間違いなく、リビライラはそう思っていた。

“今にも倒れてしまいそうな、弱いひと。どうやって切り抜ける?”

 気遣うように、それでいて愉しげにアースレイヤが嗤う。歪で、不気味な人達だ。この上なく美しい笑みを湛えて、人の弱さを暴くことを、少しも躊躇しない。

「僕も、いただいていいですか?」

 歪んだ視界を正してくれたのは、いとけない容姿の、青い天球から遣わされた天上人であった。
 公宮の頂点にありながら、少しも気取ったところのない素朴な印象を与える人で、傍にいるとサンベリアの心は凪いだ。
 運命の日――
 いつもと変わらぬ、清らかな陽光の降り注ぐ大神殿。
 典礼儀式の始まりを告げるカリヨンの音を待っていると、ふと内陣の影に、いつもは立たぬ神殿騎士の姿を見つけた。よく見渡せば、石柱のそちこちに護衛が立っている。
 違和感に気付くと、周囲に満ちる空気も、ぴんと張り詰めて感じた。水底のような不気味な静けさに、嫌な予感が芽生える……
 しかし、原因は判らぬまま、澄んだ鐘の音色が鳴り響いた。
 眼を閉じて、黙して祈りを捧げるうちに、胸の不安は霧散していく。
 無心になれる、聖なる時間が好きだ。祈りを捧げると、不安もいくらか和らぐから……
 黙祷を終えて、聖水を受けとろうとした瞬間、正面から駆けてきた花嫁に腕を取られた。思いもよらぬ衝撃に、手にしたゴブレットから聖水が零れた。

「サンベリア様、僕と一緒にきてください」

 いつになく、緊張した面差しの花嫁に続くと、廊下へ出るなり彼は口を開いた。

「貴方は、このままだと殺されます。さっきは、毒殺の可能性があった。権力を一切捨てる覚悟はありますか?」

 黒水晶のような眼差しに映りながら、一瞬、答えを躊躇った。サンベリア自身に未練はなくとも、家名を守る父や母を思うと、頷き兼ねたのだ。
 けれど――
 この先、馴染めぬ公宮で、忍び寄る暗殺に、敢然かんぜんと立ち向かってゆく自信などない。
 賞賛も栄誉も立場もいらない。ただ、怯えることなく、穏やかな日々を過ごしてみたい……!
 心に棲む、もう一人の私が背中を押した。

“選んでいいのよ”

 気付けば、深く頷いていた。
 後を追い駆けてきたアースレイヤ達を前に、花嫁は驚くべきことを口にする――

「彼女は私有財産を捨て、婚姻を破棄し、シャイターンに誓願を立てる必要があります。御子と共に神官宿舎に迎え入れてください」

 そうできれば、どんなに素晴らしいか。
 サンベリアよりも背は低いのに、厳かに啓示を口にする天上人の背中は、不思議と霊峰のように大きくそびえて見えた。
 四貴妃にありながら、神門に下る。
 前代未聞の異例に、小波さざなみのように周囲に動揺が走ったが、花嫁の揺るがぬ言葉は彼等を黙らせた。
 内陣へ戻ろうとすると、公宮の佳人、美しいリビライラと視線が絡んだ。
 彼女の、蒼氷色そうひいろの瞳が苦手であった。いつも、少し視線を逸らして、直視しないよう調節しているくらいだ。
 けれど、あの瞬間――
 芽生えた感情に、名をつけるとしたら、何が相応しかったろう?
 妃として対峙するのは、これが最後になる。
 そう思うと、不思議と美しい眼差しを臆することなく見返せた。最初で最後の、視線が交錯する。

「サンベリア様。公宮を出て行かれるのですね。寂しくなりますわ……」

 知己との別離を惜しむような口調に、サンベリアの胸中は複雑に揺れた。
 幾星霜の時代の重みを告げる神殿の中、周囲の景色は視界から失せ、二人きりで茫漠ぼうばくの砂の海に立っているような、そんな錯覚を覚えた。
 いくつもの光景が胸をよぎる――
 幾度となく呼ばれた茶会、この世の贅を尽くした楽園の宴。隅で縮こまるサンベリアを、このひとは連れ回しもしたけれど、欠片も愉しくなかったわけではない。
 時には、四阿あずまやの下で静かに過ごし、穏やかな時間を共有したこともある。
 焦燥と疑心だけが、あの雅な世界の全てではなかった。
 本当は、サンベリアの弱さが、常世の楽園を灰色の染めてしまったと、知っている。
 畏怖の陰には、憧憬も確かにあった。

「殿下の御言葉通りにいたします。生涯、シャイターンにお仕えいたします」

 憧れていた――典雅な所作、銀細工のように美しい容姿もさながら、揺るがない、直視できぬほど強い、燃えるような眼差しに。
 交差していた視線は、どちらからともなく自然に外れた。静かに、言葉もなく内陣へと戻ってゆく。
 心の中でひっそり、万感を込めて告げた。

 さようなら、リビライラ様――




『偲ぶ夜の憩い』 - サンベリア -


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