超B(L)級 ゾンBL - 君が美味しそう…これって○○? -

1章:感染 - 9 -

 四日目。朝。
 洗面台の前で、濡れた顔をタオルで拭いていた広海は、レオが入ってきたのを見て、思わず手をとめた。
 彼が、あまりにも変わっていたせいだ。
 もともと端麗な外貌をしていたが、今朝は迫力が違う。
 巴旦杏はたんきょうの形のひとみは濡れたように輝いて、明るい虹彩はさらに一段明るく、狼のような琥珀色に変化している。肌も雪花石膏アラバスターのようにめらかで、毛穴すら見えない。鼻梁も唇も瞳の形も、顔の一つ一つのパーツが、より完璧に近づいている。
 つまるところ、一晩の間に、震えあがるような美貌に変わっていた。
 これまでの生涯で、これほどの感動をもって人の顔を眺めたことはない。
「……どうしたんですか、レオさん」
 昨夜の気まずさを忘れて、広海は見惚れきった声で訊ねた。
「あ゛?」
 寝起きのせいか、その声は鋭く聴こえた。此の世ならぬ美貌だが、中身は確かにレオのようだ。
 びくついた広海だが、鏡のなかで目が遭うと、琥珀の瞳がふっと和んだ。
「はよ」
「お早うございます……レオさん、なんか違いません?」
「違うって?」
 レオは欠伸をしながらいった。
「なんか、瞳の色とか違くありません?」
「あ――……なんでだろうな」
 自分のことなのに、レオは淡々としている。鏡と向きあっても沈着そのもの、ちっとも興味なさそうな様子で洗顔を始めた。
 広海は、髪を梳かしながら、ちらちらと横目でレオを盗み見た。うっかり見惚れてしまったが、今朝はいおうと思っていたことがあるのだ。
 彼が顔をあげるのを待って、意を決して口を開いた。
「あの、レオさん」
「ん?」
 タオルで濡れた顔を拭きながら、レオは広海を見つめ返した。
「やっぱり、避難所にいってみませんか?」
「九段下の?」
「はい。今のところ、機能しているみたいだし……昨日のこともあるし」
 レオは、探るように広海の目を覗きこんできた。
 澄んだ美しい眸に、広海の鼓動は高鳴る。そわそわし始めたところで、レオが唇を開いた。
「俺が怖い?」
「えっ? ……いえ、怖くないですよ」
「ほんと?」
「はい……」
 質問の意図が判らず、広海は戸惑ったように頷いた。
「俺があんな風にキスしたから、一緒にいるのが嫌になったわけじゃなくて?」
 レオは自嘲気味に頬を歪めた。はっと広海は目を瞠り、
「違いますよ! そんな、全然……っ」
 昨夜のことが脳裡に閃いて、赤くなった。顔を隠すように、片手で口を覆う。
「はっきりいえよ」
 苛立ちの滲んだ声でレオがいった瞬間、洗面台に置いてあるプラスティック製のコップが落ちた。
 思わず広海はびくっとした。
 触れてもいないのに……ひとりでに落ちた?
 そんな馬鹿なと思うが、落ちた理由が見当たらない。まるで怪奇現象みたいだ。
 ちらりと隣を窺うと、レオも眉を顰めて、落ちたコップを見つめていた。
 束の間、痛いほどの静寂が流れた。
 沈黙が長引くほどに不安に駆られ、広海は勇をして、レオを仰ぎ見た。
「ほんとう、です……嫌になったりしません。お世話になりっぱなしで、レオさんの方こそ、俺が嫌になったりしていませんか?」
 自信なさげに広海はいった。おずおずとした響きが自分でも嫌だと思ったが、レオの眉間の皺は和らいだ。
「別に嫌じゃねぇよ……ふぅん、俺にキスされて、嫌じゃなかったんだ?」
 うっ、と広海は言葉に詰まった。嫌ではなかったが、肯定するのも勇気がいる。
 黙りこむ広海の真理を探るように、レオはじっっと目を覗きこもうとしてくる。
 視線を泳がせまくった広海だが、思いきって顔をあげた。
「驚いたけど、平気です。レオさんも俺も、昨日は動揺していたんですよ。気の迷いっていうか、こんなことになっちゃって、普通の状態でなんていられないしっ」
 勢いよくまくしたてる。レオはちょっと驚いた顔をしたが、すぐに真面目な顔つきになった。
「……気の迷いじゃないっていったら?」
「え?」
「今もお前にキスしたいんだけど」
「えっ!? え~っと……それは……??」
 それは予想外の展開だ。広海は笑おうとしたが、レオの真剣な表情を見て怖気づいた。ぞくっとするような美貌に憑かれて、呼吸ができなくなる。
「……なーんて、な」
 すぐにレオは冗談めかしたが、広海は笑えなかった。彼は本当に、キスしたいと思ったのだろうか?
 散らかった思考を宥めながら、なんとか言葉を継いだ。
「……また侵入されるかも」
「それは俺も考えた。まぁ、飯喰ってから話そうぜ」
 そういってレオは、広海の肩を軽く叩いてからバスルームをでていった。
 残された広海はため息をついた。やはり九段下の避難所にいくのは、乗り気ではないらしい。
 かといって、ここも安全というわけではない。ゾンビや人間からも襲撃される危険がある。事実、昨日はピッキングまでされたのだ。
 それに、割れた窓の隙間から雨風が入ってくるので、このままでは床も壁も傷んでいく一方だ。
 そういった懸念を差し引いても、軍や医療支援のある避難所に移動すべきだと思うが、レオにその気がないなら座礁したも同然である。
 他にいい案も思い浮かばず、憂鬱な気分で何気なくスマホを開くと、メールが届いていた。昨日の二十三時十八分。母からだ。

“広海、無事ですか? 私は広海の部屋にいます。お父さんが感染して外にいるので、でられません”

 心臓が動悸し始めた。父が感染したことも衝撃だが、母が窮地に陥っている。助けを必要としている。
 広海は慌ただしく階段を駆け下り、レオを探してキッチンへ駆けこんだ。
「レオさん!」
 腰にエプロンを巻いたレオが、驚いた顔つきで振り向いた。広海はスマホの液晶を見せ、
「母さんからメールがきました。生きてるって!」
「マジか」
「はい! 父さんはゾンビになっちゃったみたいだけど……」
 意図せず声が潤みかけ、広海は狼狽えた。レオは火をとめると、遠慮がちに広海の頭に手を乗せた。
「……お父さん、残念だな」
「っ」
 嗚咽がこぼれないよう、広海は唇を噛み締めた。レオの胸のなかに抱き寄せられると、思わず腕のシャツを掴んだ。
「うぅ、父さん……マジかよぉ、ゾンビって……なんだよそれ……っ」
「うん……お母さんは?」
「家に、俺の部屋に逃げたみたいです。外に父さんがいるから、でられないらしくて……」
 広海は涙を手で拭うと、哀願の眼差しでレオを見つめた。
「助けにいかないと」
「実家、ここから近いんだよな?」
「はい」
「判った。いこう」
 レオは躊躇なく答えた。広海は驚いて、彼の瞳とまじまじと覗きこんだ。
「一緒にきてくれるんですか?」
「もちろん」
 当然のように頷くレオに、広海は、感謝と罪悪感を同時に抱いた。
「心強いけど、レオさんはいいんですか? 家族から連絡は?」
「ないけど、あったとしても向こうはアメリカにいるし、空港は機能していないから、今すぐできることはねぇよ」
「……」
 広海の苦しげな顔をみて、レオはふっと笑った。
「んな顔すんなって。俺も一人でいるより、ロミといた方が気が楽だからさ。ついていくよ」
 広海の目に新たな涙が溢れた。
「レオさん~~っ……ありがとうございます……っ」
 真に感謝のこもった声でいうと、広海は丁寧に一揖いちゆうした。
 嗚咽をこらえる広海を、レオは優しい眼差しで見下ろし、そっと髪を撫でた。
「ここもそろそろ限界だし、でかけるついでに住処を変えようぜ。荷物まとめたら出発するぞ」
 広海は涙を拭いて、大きく頷いた。