超B(L)級 ゾンBL - 君が美味しそう…これって○○? -

1章:感染 - 6 -

 レオがでかけて一人になると、店のなかは森閑しんかんと静まりかえったように感じられた。渋谷の往来にあるにも関わらず、喧騒は皆無で、無音に浸されている。
 店内を見回し、このあと何をしようかと広海は考えた。掃除でもしようかと思ったが、物音が立つことを考えるとはばかられた。特にレオのいない間は、慎重に行動しなければならない。
 結局、二階の和室で寛ぐことにした。
 本棚から雑誌を数冊見繕い、畳の上に並べて、ケトルで沸かした湯でインスタント珈琲を淹れる。クッションを整え、マグカップを乗せた盆を傍に寄せて、布団の上の寝転んだ。
 そうして怠惰に午後を過ごすうちに、とろとろとした眠気に襲われた。
 いつの間にか微睡んでいた広海は、かすかな物音で目を醒ました。レオが戻ってきたのだろうか? 
 起きあがって部屋をでると、軽い足取りで階段を降りていこうとし……がちゃがちゃと扉の把手を回す音に、動きを止めた。
 まさか。
 大丈夫、鉄製の扉だ。開くわけがない。これまでにも扉を叩かれたことは何度かあったが、何事も起こらなかった。彼等・・は、やがて諦めて立ち去る。
 けれども、今日に限って違った。
 何者かが、意図的に鍵を開けようとしている。扉の向こうにいるのは、不死感染者ではない。人間・・だ。
 そうと判るや、耳の奥でどくどくと心臓が脈打ち始めた。
 広海は階段の上に移動し、息を殺して階下の様子をうかがった。
 カチリ。
 錠のなかでシリンダーの回転する音が、いやに大きく響いた。
(落ち着け、慌てるな。冷静に考えろ。レオさんはいないんだ、俺が一人で対処するんだ)
 和室にある金属バッドが脳裡にった。暴力は苦手だが、丸腰ではいられない。
 忍び足で和室に入ると、万が一にも落とさぬよう、金属バッドを両腕に抱えて階段に戻った。そこから暗がりに目を凝らすが、この位置からでは何も見えない。かといって、階段を降りて、見つかる危険は冒したくなかった。
 扉の開く音が聞こえた瞬間、広海は戦慄した。
 入ってきた……金属バッドを掴んでいる掌が、じっとり汗ばむ。耳を澄ませるが、ぴたりと物音は止んだ。
 侵入者は、鍵を開けたのに、なかなか入ってこようとしない。戸口で立ち止まり、注意深くなかの様子を窺っている。この用心深さは、間違いなく生きた人間だ。
 凄まじい緊張感。
 沈黙が神経に突き刺さるようだ。呼吸すら気取られそうで、広海は右手で口を押さえた。
 やがて危険がないと判断したらしく、侵入者は静かに入ってきた。慎重な足取りからは、尋常ならざる猜疑心と警戒心の強さが窺えた。
(どうしよう、二階にあがってきたら……)
 不安のあまり吐きそうになったが、足音は、厨房の方へ向かった。目的は喰料らしい。冷蔵庫を開ける音や、棚をごそごそと物色する音が聞こえてきた。
 相手は二人、いや三人だ。二人が厨房に入り、三人目は戸口と廊下を行ったり来たりしている。見張り役なのだろう。
 廊下を見張られているとなると、一階の退路は絶たれたも同然だ。このまま隠れていても、連中が二階にあがってきたら、見つかってしまう。そうなる前に、名乗りでるべきだろうか。
 迷っていると、ナイフのような、硬質な何かが床に落ちる音が聞こえた。
 広海は呼吸を止めた。今にも心臓の音が聞こえてしまいそうなほど鼓動が激しくなった。
 このまま静観していていいのか?
 このままでは喰料を盗まれてしまう。
 ここは自分たちの住処なのだと説明すれば、喰料をとらずにいてくれるかもしれない。
 だけど、相手は武器を持っているんだぞ。話が通じるとは限らない。争いになったら? いやでも、大事な喰料だ。黙って静観して、みすみす渡すのか? どうするんだ?
 決断しろ。レオがいない今、店のことは広海がどうにかしないといけないのだ。
 ありったけの勇気と決意をふるい起こし、広海は、立ちあがった。手に持った金属バッドは、少し迷い、床に置いた。
 わざと足音を立てながら、階段を降りていく。
 厨房の物音がぴたりとやんだ。
 仄暗い建物に、さざなみのように緊張がはしり抜けていく。弦を張ったように、空気は極限までぴんと張りつめた。
 沈黙を破るように、広海は、わざと小さな咳払いをした。
「……あの、武器は持っていません。攻撃しないでください」
 声をかけてから、ゆっくりと暗い階段を降りていく。視界が明るくなるにつれ、侵入者たちの足が見えた。続いて上半身……武器を持った手が見えて、広海は不安に駆られた。
「攻撃しないでください」
 念押ししてから、ゆっくり慎重に階段を降りていく。
 しかし、両腕をあげた状態で彼等の前に立った時、こんなことをしなければ良かったと、心の底から後悔した。見つめてくる三対の双眸そうぼうが、ぞっとするほど凶悪に見えたのだ。
 三人共、暗い色のウィンドブレーカーを着ていて、手にはナイフや包丁を持っている。殺気を滲ませていたが、広海をじろじろと眺め回し、いくらか緊張を緩めた。
「一人?」
 男の一人が訊ねた。痩身で小柄な四十半ばの男だ。他の二人より年嵩としかさなところを見ると、彼がリーダーなのかもしれない。
「えーっと、もう一人いるんですけど、今ちょっとでかけていて……あの、喰料をとらないでください」
 緊張に震える声で広海はいった。
 相手の、落ち窪んだ眼窩がんかの眼球が、狡猾こうかつな光を宿したように見えた。
「これ、君の?」
 缶詰を振りながら、男が訊ねた。
「え? ……はい」
「他にもある?」
「え……」
「こっちは三人いるんだ。少し分けてくれないか?」
「あの、困ります。それは二人分の喰料なんです」
 落ち着き始めていた心臓が、再びどきどきしてきた。
「こっちも喰べるものがなくて、困ってるんだよ」
 相手は完全に広海をなめてかかっており、話はしまいとばかりに、店内を物色し始めた。冷蔵庫を開けた一人が、嬉しそうな声をあげた。
「お、卵にベーコンもある」
「とらないでくださいっ」
 それは、レオがとっておいたものだ。広海は傍によって、彼を止めようと腕を伸ばした。
「邪魔だ」
 一人が横から広海を突き飛ばした。
 よろけた拍子に、調理台の角に腰を打ちつけてしまい、広海は痛みに呻いた。
ぅ……」
 腰をさすりながら、店内を荒らす侵入者たちを絶望的な気持ちで見やった。
 悔しい。悔しい。悔しい。だけど相手は三人もいて、武器を持っているのだ。怖い。怖い。怖い。痛い思いはしたくない。
 涙がにじみそうになった時、不気味な呻き声が店の外から聞こえてきた。
 その場にいた全員が、一斉に扉を振り向いた。
 喰料をリュックに詰めていた男たちは、慌てて外へ飛びだそうとした。広海は渾身の力を振り絞って、一人の脚に両腕を絡めてしがみついた。
「うわっ」
 そいつが地面に転がると、広海はすかさず男の肩からリュックを奪った。
「こいつッ!」
 別の男が、リュックを掴んで奪い返そうとするが、広海は意地でも離すまいと胸に抱えこんだ。反動で道路まで転がり、感染者のすぐ目の前に倒れこんでしまった。
「ひっ」
 慌てて逃げようと体制を崩した瞬間に、素早く荷物を奪われた。
「あっ」
 伸ばした手が宙を掻く。駄目押しとばかりに、三人目の男が、広海の腹に蹴りを打ちこんだ。
「ぐっ」
 痛みにのたうちまわりながら、視界に感染者達のぼろぼろの靴が映り、広海はパニックに陥った。咄嗟に起きあがれず、身体を丸めて頭を庇う。
 喰われる。今度こそ喰われる――
「ぎゃあぁぁッ」
 耳をつんざく悲鳴に、広海は目をこじあけた。顔をあげると、三人組の一人が、不死感染者に襲われているところだった。
「やめろぉぉ痛ぇよぉッ!」
 死にもの狂いで暴れて、感染者を引き剥がそうとするが、喰い千切られえぐれた首から、とめどなく血が溢れでている。残った二人は助けるか逃げるか迷い、その一瞬の隙に別の感染者に襲われた。
「ぃ゛ッ、離せ! ぎゃぁぁッ!!」
 阿鼻叫喚を迸らせる。
 訳が判らない――なぜ広海ではなく、彼等が襲われた? リュックを持っていたから? 混乱のあまりそんなことを思ったが、亡者共はリュックの中に入っている喰料には目もくれず、人肉にくらいついている。
 考えている暇はない。悪魔の晩餐を尻目に、広海はリュックをひっつかみ、店のなかに逃げこんだ。無我夢中で扉に鍵をかける。
 ばたばたと二階にあがり、窓の隙間から恐る恐る下を覗くと、五、六人の不死感染者が屈みこんで、肉を貪っていた。
「うっ」
 広海は壁に背を預けて、耳を塞いだ。身の毛も弥立よだつ、人肉を咀嚼する音が鼓膜にこびりついて離れない。
 狼狽えている場合ではない。このままでは、レオが帰ってこれない。店の前から、どうにかして彼等をどかさなければ……
 涙を拭いて立ちあがると、窓の外をのぞきこんだ。
 連中はまだ、三人を貪っている。内蔵が拡がり、躰から血が流れている。
 想像を絶する惨状に、広海は右手で口を覆った。窓を閉めているにも関わらず、銅のような血の生々しい匂い、陰惨な死臭が、ここまで漂ってくるような気がした。酸っぱい胃液が喉をせりあがってきて、無理矢理に嚥下する。
 だめだ。
 とても正視に耐えられない。
 光景から目を背け、背中を壁にもたせかけ、へなへなと倒れるようにしゃがみこむ。
 感染者をどうにか追い払わなくてはならない。でもどうやって? 物音を立てるのは危険だ。いっそ火をつけて燃やしてしまおうか? だめだ、店に引火したらどうする?
 頭を働かせようとするが、気が動転していて、考えがまとまらない。
 レオを案じながら、今すぐにここから逃げだしたい衝動に駆られた。それはだめだと脳が命令する。早くしないとレオが戻ってきてしまう!
 再び窓の外を見た時、もうゾンビはいなかった。
 そこには骨の欠片と、血に染まり引き裂かれた服の端切れしか残っていなかった。異常喰欲者たちは、彼等を服ごと喰べたのだ。