超B(L)級 ゾンBL - 君が美味しそう…これって○○? -

後日談 - 1 -

幸運な出会い

 第二海ほたるを脱出した後、広海とレオは数日間ラブホテルに身をひそめ、その後はしばらく池袋のベースにこもっていた。
 冬の最中さなかに新居を探す気力はなかったし、ベースには回収してきたバイクを改造するための環境も、人手もそろっている。
 バイクは長距離移動に備え、車体の脇に車輪つきの荷台を据えつけ、着脱できるサイドユニットへと組み替えられた。旧世紀の軍残車両ミリタリー・リグと現代メカニックが融合したようなシルエットが、広海も気に入っている。
 レオは渋谷の要塞ようさいの後始末などで単独行動が多く、その間、広海が安全に隠れていられる場所としても、ベースは都合が良かった。
 それに広海は、九龍城砦クーロンじょうさいめいた退廃たいはい的空気をかもすベースが、嫌いじゃなかった。
 見知った顔ぶれも多く、最低限の規律と衣食住の保証があり、温もりをたたえた地下室には、そのまま根を下ろしてもいいと思えるほどの静けさがあった。
 だが、レオはやはり集団生活を好まなかった。
 春のきざしが訪れるのを待ち、二人はベースをでていくことにした。
 別れを惜しまれたのは、主にレオだ。
 彼はどこへ行っても磁場じばのように注目される。広海以外には素っ気なく塩対応だが、女も男も、隙あらば彼の傍にはべりたがるのだ。
 本人は鬱陶しそうにしているが、秋波しゅうはを向けられるレオを見るのは、広海としても面白くなかった。彼は、広海の恋人なのだから。
 実は、密かに嫉妬していたので、ベースを離れることに寂しさを覚える一方で、ほっとする気持ちもあった。

 二〇九七年三月一四日。感染二〇七日目。
 朝はまだ冷えるが、気温はだいぶ暖かくなってきた。日中は半袖でもいいくらいだが、今日はバイクで風を切るので、広海もレオも、襟つきのライダージャケットを着ている。
 二人は、サイドユニットを連結した改造バイクに乗り、新しい住処すみかを求めて走りだした。
「どうせなら、海が見える場所がいい」
 広海の一言で、進路は南へと傾いた。
 池袋を抜け、渋谷を過ぎ、新宿の外縁がいえんをかすめて南下していく。
 首都高速・三号渋谷線へ入り、荒れた高架こうかを一気に海側へ向けて走り抜ける。
 大井ふ頭が見え始める頃、空気には仄かな潮の匂いが混じりはじめた。
 静まり帰った倉庫街、動かないコンテナクレーン、乗り捨てられた車のむれ──置き去りにされた文明が、春の陽光のなかでひっそりと沈黙していた。
 そこから湾岸線へと乗り継ぎ、無人のベイブリッジを遠望えんぼうしつつさらに南下すると、海はようやく、真正面から二人を迎えた。
 レオの判断で、横浜の中心部は避けることにした。
 まだ生存者が潜んでいる可能性のある大都市は、広海にとっても避けたい領域だった。
 池袋のベースでは地下にこもっていた反動で、海が見たいと思ったものの……いざ水平線を眺めると、第二海ほたるの嫌な記憶がよみがえってきた。
 沈んだ気配を、レオは風の流れでも読むように察したのかもしれない。
 急に海岸線を外れ、三浦富士の丘陵きゅうりょうを横断する内陸のルートへとかじを切った。
 森に入り、そのまま一時間前後、ひんやりとした木陰こかげの道を走った。頭上では大樹の枝が絡みあい、折り重なる葉の隙間から、木漏れ日が小粒のダイヤモンドみたいにきらめいていた。
 のどかで美しい農道を走るうちに、広海の心は癒され、穏やかに凪いでいった。
 やがて空気が再び潮の匂いを帯びてくると、レオはスロットルをわずかに緩めた。
 樹々の回廊を抜けた瞬間、視界いっぱいに水平線がきらめいた。
 白い波頭。誰もいないヨットハーバー。富士山が、驚くほど大きく見える。
 景勝けいしょうに定評ある葉山一色はやまいっしき海岸は、どこか絵画めいており、広海はようやく第二海ほたるの残響を振り払えた気がした。
「絶景だね!」
 声をあげると、レオも「そうだな」と笑った。
 ノンストップで走る道路は気持ちがいい。観光名所なだけあり、パノラマで拝める海の眺望ちょうぼうは最高だ。
 陽も暮れてきたので、その日は海岸沿いの温泉旅館で一泊することにした。
 といっても、もてなしてくれる中居も女将おかみもいない。
 無人の旅館は、ありがたいことにガスも水道も使えた。電気は故障していたが、万能なレオが直してくれた。
 薄闇うすやみに沈む脱衣所には、砂埃の積もったおけと、誰かが最後に触れたままのタオルが残され、がらんとしていた。
 誰もいないが、露天風呂は生きていた。
 白い湯気が揺らぎ、山影やまかげのほつれたふちから、溶けた夕焼けが流れ落ちてくる。
 湯面にふわりと映る自分の顔が、広海にはどこか夢のように感じられた。
 レオも、持ちこんだ酒を片手に、風に吹かれながら沈む夕陽を眺めていた。
 湯からあがる頃には、旅館の外はすっかり宵闇よいやみに沈んでいた。
 照明の落ちた廊下を歩き、埃の匂いがかすかにただよう広い和室に戻ると、なんとも風情ふぜいある景色が待っていた。
 窓の向こうでは、月が海を銀斑ぎんはんに照らし、涼しげな波音が規則正しく寄せては返している。
 広海はバックパックをあさり、携帯食のビスケットを取りだした。
 それほど空腹というわけではないが、気分的に一日の終わりは何か口に入れておきたかった。
 温まった躰で畳に腰をおろし、簡素な喰糧を噛みしめる。
 一方レオは、とうの安楽椅子に腰かけ、電子煙草を吸いながら、広海の様子をじっと見ていた。
「……それで足りるのか」
「うん。今日はこれでいいよ」
 食べ終えて満足げに広海が答えると、レオはふ、と笑った。
 のどの奥で転がるようなその笑いは、いつも広海の心臓を薄く震わせる。
「安上りでいいな……けど、俺は違う」
 レオは、吸い殻を携帯灰皿にしまい、立ちあがると、影のように近づいてきた。
 畳のきしむ音が、静かな部屋の空気をゆっくりたわませた。
 彼にも喰餌・・が必要だ。広海は、自分から顔をあげた。
 レオが屈んで、広海の頬に触れた。
 湯あがりで火照った肌に、彼の指先はひんやりと冷たく感じられた。
「……キスしたい」
 返事をする前に、もう唇が塞がれていた。
 吸われるというより、丹念に味を拾われていく。
「ん……」
 舌先が触れあうたびに、胸の奥がきゅ、とね、湯気の名残なごりがまだ体内で揺れているようだった。
 レオが粘膜越しにるそれは、血でも肉でもない。広海の躰が作りだす、彼にとっての燃料・・だ。
 優しく舌をからめ捕られ、溢れる唾液をすすられるたび、広海の体温はどうしようもなく上昇していく。
 このまま押し倒されるかと思ったが、レオは唇をほどいて身を引いた。広海は息を整えつつ、問いかけるようにレオを見つめた。
「……サンキュ、これで明日も頑張れる」
「うん……ふぅ」
 ほほえんだ広海の息は、まだあがっている。
「明日もバイク乗るし、さっさと寝るか……にしてもロミ、息継ぎ苦手だよなぁ」
 からかうようにレオが笑う。広海は朱く染まった顔で、視線をらした。
「……レオが慣れすぎなんだよ」
「ンなことねーよ、ロミだけだよ」
 立ちあがりかけていたレオは、傍に身を寄せ、額をそっと触れあわせて囁いた。
「……マジだからな? ロミは俺のすべてだ」
 その声が、ひどく正直で。
 広海は返答に詰まった。どう答えようか迷っていると、レオは今度こそ立ちあがり、押し入れから布団を引っぱりだした。くんと鼻を鳴らし、
「そんなにかび臭くねぇな。ま、今夜だけだから我慢しろよ」
「平気だよ」
 二人分の布団を敷くのを、広海も手伝った。
 誰も訪れることのない旅館の布団は湿り気を帯びていたが、広海には、むしろ懐かしい温度に思えた。
「布団って、久しぶりだなぁ」
 渋谷の要塞ようさいも池袋のベースもベッドで眠っていたので、畳に布団の組みあわせは、渋谷のバー以来だ。
 レオも同じことを思ったのだろう。懐かしいな、と言って笑う。
 敷かれた布団に潜りこむと、畳の匂いと、海の音が胸の奥に響いてきて、旅情を掻き立てられた。
「電気消すぞ?」
「うん」
 レオも隣に横たわり、広海の額にそっと手を置いた。
「……部屋でる時は、起こせよ?」
「はい」
 電気を消して部屋が暗くなると、広海はそっとまぶたを閉じた。
 快い疲労感にひたされて、眠気はすぐに訪れた。
 海風が揺らす窓の隙間音が、ふたりを包む子守唄のように流れていた。

 *

 翌朝、薄曇りの空に海霧うみぎりが薄くただよっていた。
 旅館の前でエンジンをかけると、冷えた空気を割って音が鋭く走り、静かな浜に反響した。
「菜島の鳥居でも見に行くか」
 思いついたようにレオが言って、広海も頷いた。
 自由気儘きままな二人旅だ。いつでも、どこへでも、好きなところに行ける。
 人気ひとけのない海沿いの道路は、かつて観光客で溢れたはずの風景を、まるごと剥ぎ取られたように無音だった。
 罅割ひびわれた歩道、潮に焼かれたガードレール、色せた看板──すべてが、無人のまま時間にさらされていた。
 逗子方面に向かって湾岸道路を走ってしばらく、大きな看板のある自動販売機群が見えてきた。
 立ち止まって休憩するには、うってつけの場所だ。
 バイクを停め、レオが辺りを警戒する間に、広海は販売機で炭酸飲料を買った。
 残念ながら常温だが、口に含むと、炭酸の刺激がのどをひやりと撫でた。
 ふと、視線を感じた。
 胸がかすかにざわめき、広海は慎重に、ゆっくりと周囲を見渡した。
 すると看板の影に、さらに黒い影が沈んでいた。
「あれっ、犬がいる」
 思わず声をあげると、影はゆっくり立ちあがった。レオも気がついて傍にやってきた。
 大きな長毛の黒犬が、しっぽを振っている。
 ガリガリに痩せて薄汚れているが、星屑ほしくずを溶かしたみたいに輝く、優しいひとみをしていた。
 広海がそっと屈むと、犬はふんふんと鼻を鳴らし、掌の匂いを嗅いできた。
 ほんの一瞬、その温もりが胸の奥に灯った。
「きったねー犬だな」
 無慈悲なレオの言葉にも、犬は彼に向けて嬉しそうに尻尾を振った。
「首輪してないけど、飼い犬だよね……こんなに人懐っこいし。飼い主、もういないのかな」
 四方を見渡しても、返ってくるのは潮風とびた看板のきしむ音だけだった。
「お前、なんでこんな所にいるの?」
 なんだか愉快な気分になって、撫でながら問いかけた。
「あんま触るなよ。汚れるぞ」
 低く制するレオを無視して、広海は、犬の耳をそっと撫でた。黒犬は目を細め、広海の指へ顔を押しつけてくる。
「俺達、家探ししてるんだよ。お前も一緒に来る?」
「ワン!」
「は?」
 犬は乗り気なようだが、レオは威嚇いかくめいた声を発した。広海は屈みこんだまま、長身の相棒を振り仰いだ。
「この子、連れてっていい?」
「いや、ダメだろ」
「なんか、運命感じたんだよ……ほら、LUCYラッキーって書いてある看板の下にいたし。この子、幸運のワンコだよ」
「いや、LUCYルーシーな。LUCYルーシーEnergyエナジー、昔流行はやった危ねぇエナドリの名前」
「え、そうなの? 俺、飲んだことない」
 広海はこれまでの人生で、滋養剤というものを飲んだ経験がなかった。
「俺は何回かある。バーによく置いてあってな……ま、ロミには敵わねぇけど」
 意味深長にレオが笑った。
「どういう意味かな?」
 広海が笑顔に圧をこめて訊き返すと、レオはふいっと視線をらした。
 気を取り直して、広海は黒い犬に視線を戻した。
「でも、なんか……ラッキーって感じなんだよね。お前のこと、ラッキーって呼んでいい?」
「ワンッ」
「おー、言葉判ってるみたい」
「……マジかよ」
 レオは当惑したように前髪をかきあげた。
「レオ、この子も連れていきたい」
 図らずも上目遣いで懇願すると、レオは顔をしかめた。
「……そのクソ汚ねー犬をバイクに乗せるのかよ」
 嫌そうに呟きながらも、声はどこか諦めの色を含んでいた。
「俺のシャツでくるんで抱っこするよ。バイクの掃除も俺がするから」
 この改造バイクなら、広海と犬一匹くらい余裕で運べる。とはいえ、レオが大事にしてる愛機だということは、広海もよく判っていた。
「……どうせなら、もっと使える番犬にしようぜ。虎とか狼とか」
 説得を試みるレオに、広海は胡乱うろんげな目を向けた。
「やだよ、怖いじゃん。ってか犬じゃないし」
「ソレがいいわけ?」
「ラッキーがいい」
「……ルーシーな。まぁ、雄っぽいし……ラッキーでいいか……………………判ったよ」
「ありがとう!」
 広海は立ちあがって、レオにぎゅっと抱きついた。彼も抱きしめ返してくれたが、くんくんと鼻を鳴らした。
「犬くせー……どっか風呂のある場所、探さねぇと」
 そのとき、広海の視線の先に、新居ののぼりが揺れているのが見えた。レオの袖を引いて指さす。
「あれ、住宅展示場ののぼりかな? 行ってみる?」
 レオはしばらく黙ってその方向を見つめ、やがてゆっくり頷いた。
「……行ってみるか」 
「ワン!」
 返事より早く吠えるラッキーに、広海は思わず口元を緩めた。
「ラッキーも行きたいって」
「てめーは風呂場直行だ」
 レオはラッキーを鋭く睨んだが、そのひとみには──かすかに、笑いの影が宿っていた。