月狼聖杯記

8章:夜明けの鬨 - 9 -


 ドミナス・アロの凱旋は歓呼で迎えられた。
 雲ひとつない晴天で、降り注ぐ陽光を浴びながら、二輪車に騎乗した王は隣にラギスを伴い、王都を回遊して民を悦ばせた。
 三日後、公儀の間で論功行賞が行われた。
 傷ついた味方を救いだし、士気を高め、砦を護り抜いたラギスは武勲を認められ、正騎士から三階級飛び、司令官である百人隊長に任命された。
 小隊ながらも精鋭揃いの先鋒隊を授かり、副官の一人は先の闘いで肩を並べた古兵ふるつわもののグレイヴ、もう一人は剣闘士時代からの友であり、初陣ながらラギスに負けず劣らず武勇をあげたロキが任命された。
 ラギスは、国の存亡を懸けたラピニシア遠征の将の一人にかぞえられたのだ。
 異例の昇級といえるが、ラギスとロキの活躍を知る味方は、誰一人として文句を唱えなかった。不破の盾として城壁を固守し、シェスラが王手をかけるまでの時間を稼いだことには、それほどの価値があったのである。
 ロキはもちろん、ラギスも昇級を断らなかった。性に合っていると実感できたからだ。
 時は乱世。月狼の血が闘いを求めて疼いている。戦場に立てば、暴力と流血の使徒として、持って生まれた力を存分に発揮することができる。
 騎士の礼装に身を包み、褒賞を恭しく両手に授かるラギスを、シェスラは満足そうに見ていた。
 王は、城壁を闘い抜いた全ての兵にも何らかの褒章を与えた。
 あの日、ラギスやロキの強さも際立っていたが、味方もねばり強い攻防で答え、一個隊として最大限に機能していた。
 最前線を支え続けたラギスの強さが、驚異的な腕力や反射速度だけでなく、味方の士気を高める指揮能力の高さでもあったことを証明したわけだが、地力を見せたのは、一人一人の兵士たちなのだ。生還を果たした全員が、尊敬に値する英雄なのだ。
 余談だが、ラギスとロキが黒毛の月狼であることから、彼等の率いる先鋒隊は、畏敬の念をこめて黒狼隊と呼ばれるようになる。

 寝室に二人きり。
 開け放した窓から、梢のせせらぎ、鳥獣の声にまじって、愉しげな笑声が聞こえている。宴の席で、将兵らが騒いでいるのだ。
 書斎の暖炉傍で、ラギスとシェスラは静かに酒杯を傾けていた。
 星明りが部屋の中ほどまで射しこみ、横たわる二人を毛布のように包みこんでいる。
 将の証である、青い宝石を胸に留めているラギスを見て、シェスラは水晶の瞳を細めた。
「よく似合っているぞ」
「宝石なんて柄じゃねぇよ」
 戸惑った風にいうラギスを見て、シェスラは優しい笑みを零した。
「そなたは将に相応しい。猛将として敵にも恐れられるだろうな」
 シェスラは機嫌良さそうに緋色の葡萄酒を煽り、ラギスの方へ身を乗りだした。優しく首筋に唇を押し当てられ、ラギスの唇から柔らかな息が漏れる。
「……シェスラ」
「なんだ?」
「ネロアでは勝利した。次はラピニシアだよな?」
「そうだ」
「本気で大陸制覇できると思うか?」
「無論。私の他に誰が大陸制覇を為せるというのだ」
 ラギスは目を細めてシェスラを見た。
「……どっからくるんだ、その自信は。勢力範囲を拡げてるといっても、ドナロ大陸の小競合いだろ。井の中の蛙って知っているか?」
「私は大海を知っている。帝国の強大な軍事規模を把握した上で、己の才覚に自信と確信を持っている。負ける気は、まるでしないな」
 昂然こうぜんと胸を張るシェスラを、ラギスは呆れた目で見つめた。どんな言葉も、彼をくじ きはしないらしい。
「正念場になることは判っている。向こうの方が兵器製造の技術は遥かに高い。だが、戦略次第でいかようにも打破できる」
 自信に満ち溢れた尊大な発言のあとに、シェスラは真剣な瞳をした。
「ラギス」
「……なんだよ」
「今更と思うかもしれないが、いわせてほしい」
 彼の緊張が伝播でんぱし、ラギスの表情も強張った。なんとなく居住まいを正してシェスラに向き合う。
「そなたを城へ召しあげてから、私の振る舞いは、とても褒められたものではなかった。ついには致命的な過ちを犯し、危うくつがいを失うところだった。幸運にも、時が経つにつれて事態が好転したことを、私は漠然と受け入れていた」
「……」
「だが、甘んじるわけにはいかぬ。私には、イヴァンのことでそなたを責める資格などない。ラギスを追い詰めたのは私なのだ。あの時は、怒りに任せて手荒な真似をしてしまった。どうか赦してほしい」
 ラギスは言葉がでてこなかった。彼が心の内を明かしたことに、ただただ驚いていた。
「ラギスに出会うまで、私は忘れていた。傷を負わずとも、時には見えぬところが痛むこともあるのだと……」
 シェスラは胸を押さえて囁いた。言葉をきり、ラギスを見つめたままその場に片膝をついた。
「おい……」
 面食らって動けずにいるラギスの手を恭しく取り、真摯な眼差しを向けてきた。
「そなたは私の唯一無二のつがいだ、ラギス。苦楽を分かちあう魂の伴侶だ。そなたと私はいつでも対等なのだ。ラギスの前では私はいつでも跪き、心を捧げることを天地神明に誓う」
「シェスラ……」
 ラギスは信じられない思いで、形の良い唇が、己の分厚い手の甲に落とされるのを黙って見つめていた。彼が何を思い、考えているのか理解できないと思ったが、瞳を見れば火を見るよりも明らかだった。
「そなたを愛している」
 ラギスは息を呑んだ。
 水晶の瞳には、確かな愛情が灯っていた。二人の間にはどんな境界も、障壁もなかった。困惑に視線を揺らすラギスの頬を、シェスラは優しく両手で包みこんだ。
「そなたが命を懸けて城壁に立った時、私の心も決まった。すべきことがはっきりと見えた。この先、どれほどの艱難辛苦が横たわろうと、アレッツィアの万軍が襲ってこようとも、必ずや勝利してみせる。そなたのつがいとして。王として」
「シェスラ、」
「全ての部族を掌握し、月狼の結束を一つにする。アルトニアに、我等の土地を踏ませやしない」
「できるのか」
「小さな集落にも、王の膝元と変わらぬ光を届けるには、大陸制覇を為して全ての国境を失くすしかない。それこそが、私にできるそなたへのあがないだ」
「……途方もない絢爛けんらんな夢だ。国境をなくすまでに、どれほどの犠牲を伴うことになるのか、想像もつかん」
「私は本気だ。そなたが隣にいてくれるのなら、今いった通りの偉業を必ずや成し遂げるだろう」
「俺は……」
 ラギスは言葉に詰まった。シェスラに対する想いが複雑すぎて、言葉にすることができない。
 故郷を失った哀しみ。身を焦がす怒り、復讐の念。過酷な奴隷剣闘士の日々。
 不当に鎖に繋がれ、聖杯にさせられたこと。筆舌に尽くし難い精神的な拷問。イヴァンを斬り捨てたこと――非道な仕打ちの数々を許せないと思いながら、彼の示す所有欲に喜びも感じていた。
 反抗心を抱きながら、彼こそが王だという畏敬の念を抱いている。憎み、憎まれる度に深まった想い。理解できないと思う一方で、彼の全てを理解している。教養と剣を与えられ、立場を与えられ、認められる度に、口ではいえなかったが、本当は、心の奥底では、いつだって誇らしかったのだ!
 傷つけては慈しみ、血を流しては傷を舐めあう。そうやって前に進んでいく。それが、二人の魂の真実なのかもしれない。
 沈黙の間、シェスラは急かすことなくラギスを見つめていた。無限のように感じる神聖な沈黙のあとで、ラギスは唇を開いた。
「……大言壮語にどう落とし前をつけるのか、お手並み拝見してやる」
 居丈高な言葉だが、その声は少し震えていた。シェスラはほほえんでいる。月光のような微笑を浮べている……
「長い物語になるぞ」
「だろうな」
「間違いない。そなたは、一生、傍で見ているといい」
 月と星明りを背にして、シェスラは囁くようにいった。全身を淡い銀色に縁取られ、さながら精霊のようだ。
 ラギスは、絹糸のような白銀の髪に指をもぐらせたい誘惑に駆られた。
 見惚れているラギスの頬を両手で包みこみ、シェスラは顔を傾けた。柔らかく唇を塞がれて、ラギスは眩いばかりの陶酔感に包まれた。
 言葉はなくても、つがいに対する慈しみ、優しい慰めを感じる。それらは、何もいわなくても分かりあえる魂の伴侶によって与えられるものだ。
 ラギスは、天鵞絨びろうどのような素肌の感触と、温もりを全身に感じながら、ついの住みかに想いを馳せた。
 いつか、いつの日か――
 花鳥の歌う五月のヤクソンの緑豊かな風景。滴る緑のなかを、神々しい白銀の月狼と、一回り大きな体躯の黒狼が駈けていくだろう。
 かつては望むべくもなかった未来だ。今は、ひょっとしたら……そんな風に思い描くことができる。
 十七年間、ラギスの底に鬱積していた怒りは、シェスラと出会い、心を通わせるうちに、いつの間にか霧散していた。そんなことは起こりえないと思っていたのに……永劫に続くと思われた暗闇から、明るい陽射しのなかへと一歩を踏みだせた気がする。
 認めるしかあるまい。
 シェスラ――我がつがいよ。彼の庇護があり、傷を負った心に希望の光が芽吹いたのだ。