月狼聖杯記

7章:過ちの代償 - 10 -


 激しい情交のあと、二人は寝台の上に並んで横たわっていた。
 疲れているが眠気は訪れず、かといって会話もなく、お互いに今夜起こったことを思い返していた。
 今夜の騒動を、ラギスはまるで他人事のように俯瞰して眺めているような、操舵困難な船で世界の岸辺に流れついたような境地に浸っていた。
「……シェスラ」
 ぽつりと呟くと、シェスラは視線だけラギスによこした。
「考えたんだが……やはり、闘いが終わったら、俺はここをでていく」
 ラギスは淡々とした声でいった。シェスラは横になったまま肘をつき、上体を起こした。
「何をいっている?」
「あんたの聖杯は、もうやめだ」
「またその話か」
 ラギスはむっとしたように眉をひそめ、肘をついて上体を起こした。
「真面目に聞けよ。イヴァンを殺したんだぞ。ギュオーは黙っちゃいないだろう」
「イヴァンのしたことは、同盟を結ぼうとしている部族仲を裂く背信行為だ。ギュオーも理解している」
「確かにイヴァンのしたことは間違っている。だがここはセルト領じゃないんだぞ。罰するのは、あんたじゃなくて家長の役目だろう」
「そうではない」
「何がだよ」
「私は王としてではなく、つがいに手をだされた雄として、処罰の権利を履行したのだ」
 少しも動じないシェスラを見て、ラギスはなんともいえぬ表情を浮かべた。
「詭弁だろ……第一、つがいを守る行為といわれても、相手が俺じゃ周囲は納得しねぇだろ」
「文句などいわせるものか」
 ラギスはかぶりを振った。
「シェスラ。俺は奴隷剣闘士なんだ。あんたがいくらつがいだ、聖杯だといったところで、俺は奴隷剣闘士なんだよ」
「そなたは妄執が過ぎる。ギュオーには、拷問しなかっただけでも感謝してほしいものだ」
「イヴァンに同情はしないが、他の月狼は善良な者ばかりだ。俺の首で丸く収まるなら、差しだしてくれて構わねぇよ。追放したっていい」
「誰の首も、追放も不要だ。何の問題もないのだからな」
 シェスラは落ち着き払った、悠々たる顔でいった。同じようには振る舞えず、ラギスは苦々しい表情を浮かべた。
「……あんな男でも、ラハヴ達の兄弟なんだ。彼等に辛い想いはさせたくなかった」
 つき合いは短いが、彼等はラギスに好意をもってくれた。ラギスの方も、心地のよい友好を感じていた。ネロアを好きになりつつあった。だが、それも今夜までだ。
「ラハヴはああ見えて芯のある男だ。長兄として弟妹を支えるだろう」
 シェスラは腕を伸ばし、ラギスの頬を手の甲で撫でた。一瞬、その手に頬を押しつけたい衝動にラギスは駆られた。
「……ここを戦場にしないでくれ。頼む」
「判っている。無辜むこの民を虐げるような真似はしない」
「……」
「心配するな。私に任せておけ……山岳の部族は、同盟に応じたぞ。ラピニシアの布石としては十分な成果だ」
 ラギスはじっとシェスラを見つめた。
「だが、ギュオーは……」
「できる限りのことはした。あとは彼の体力次第だろう。いずれにせよ、今悩んでも仕方のないことだ。もう休め、今できることは、明日に備えて休むことだ」
 肩を押されるがまま、ラギスは素直に身体を横たえたが、苦々しい表情を浮かべた。
「……眠れねぇよ」
「眠れるさ。考えるのはもうやめて、目を閉じてみろ」
「……」
「明日は教練も鍛錬もない。夕方まで哨兵勤務も休んでよい」
 慈悲深い勅令も、ラギスの心を慰めはしなかった。
「もし、ギュオーが……」
 その先を続けるのは躊躇われた。きつく目を閉じると、いい知れない恐怖が胸のなかで膨れあがってくるのが感じられた。眼裏まなうらに、打ちひしがれた様子のラハヴにガルシア、咽び泣くモルガナの幻が視える。
 それに明日は月蝕の夜だ。星のことわりをようやく承知した将兵らも、ギュオーの身に何かあったと知れば、先天的な迷信に囚われかねない。闘いが始まる前から圧倒的な不利に陥ってしまう。
 考えるほどに悪寒が総身を走り、ラギスは髪の毛が逆立つ思いがした。
 彼の重苦しい不安を癒そうと、シェスラは腕を伸ばし、ラギスの髪や耳を優しく撫でてやった。
「大丈夫だ、私がついている。必ずなんとかする」
 ラギスは、貪るようにシェスラを見つめた。彼のしたことを許せないと思う一方で、彼の支配と庇護に、傷を負った心が慰められるのを感じていた。
 シェスラもじっと見つめ返した。浅黒い髭の伸びた頬には、紛れもない疲労が滲んでいる。ふだんの剛毅さはなりをひそめ、途方に暮れているようだ。
 不意に、逞しい腕がシェスラの腰を強く抱きしめた。腕の強さが、いいようのない不安を、戦慄を、心の傷を訴えていた。
 打ちひしがれているつがいを見て、シェスラの胸は痛んだ。自分よりも遥かに逞しい背中に腕を回し、足と尾を搦めた。
「もう休め……」
 耳にそっと囁いて、頭を撫でる。硬く閉じた瞼、強張った頬、引き結んだ唇……顔中に口づけの雨を降らせた。そうしている間、雄々しい身体はひたすらにじっとしていた。
 静寂が流れた。
 部屋のなかほどまで、銀色の月光が射しこんでいる。
 シェスラは、疲弊の影が残るラギスの寝顔を見つめながら、今夜起きたことを振り返っていた。
 悔いても仕方ないが、森でラギスと別れたあと、意識して彼の匂いを遮断すべきではなかった。イヴァンは言葉巧みにラギスを部屋に連れこみ、媚香を焚いていたとはいえ、荒い気性のラギスをいいくるめたのだから、口もよく回るのだろう。酒に耽溺している男だから、聖杯には元から興味があったのかもしれない。だが、動機などどうでもいい。結果が全てだ。
 イヴァンを殺したことは微塵も後悔していないが、ラギスが関わっていなければ、衝動的に殺すことはなかっただろう。捕らえて尋問はしたかもしれないが、最終的な判断は領主に委ねたはずだ。あの時は、確かに冷静さを欠いていた。
 ラギスがイヴァンといるところを目にしてから、ずっと、二つの矛盾する感情に苛まれている。ラギスに対する憤懣、和解したいという欲望……否、今夜に限った話ではない。過去ラギスに触れた全ての者を、この手で引き裂いてやりたい。彼に出会うまで知らなかった感情――嫉妬だ。
 独占欲だけではない、愛おしさも感じている。弱々しさなど欠片もない、屈強で逞しい身体をしているのに、無防備に眠る姿を見ていると、所有欲のような保護本能が心の奥深いところから沸きあがってくる。誰からも、自分からも危害を加えられないよう保護してやりたくなる……
 つくづく、感情とはままならないものだ。今夜の騒動を敵が知れば、ほくそ笑むに違いない。捨て駒がおもいのほか良い働きをしたといったところか。狙っていたのだとしら、炯眼と鋭い嗅覚を褒めるべきだろう。
 ギュオーを見つけた時、彼にはまだ意識があった。シェスラを見る彼の瞳は、哀しみと謝罪の念で溢れていた。息子が辿る運命を知り、哀しむ父親の目であり、族長としての厳粛で公正な目をしていた。
 いずれにせよ、ギュオーには服従してもらわねば困る。ネロアは必要不可欠な輜重しちょう要衝ようしょうなのだ。
 歯向かうようなら容赦はすまい――非情な決意を以て、シェスラは怜悧に冴えた思考で果断を下した。
 彼にも休息が必要だった。思考の手綱を緩めると、ラギスの胸に頬を寄せ、柔らかなため息をつき……やがて眠りに落ちた。