月狼聖杯記
7章:過ちの代償 - 1 -
八月の終わり。
シェスラは五百の騎兵連隊を率いてネロアへ発った。
一行はセルト国をでたあと、ウグナ山脈の麓に広がる樹海に入った。
威徳高い山の空気に、将兵達は身体の隅々にまで力が漲るのを感じた。苔むす巨大な
深い茂みを隊伍は進んでいたが、二日目の朝に、副司令官のインディゴは三百の騎兵隊を連れて別の路に分け入った。残った兵士の多くは、茂みに消えていく仲間の背中を不思議そうに見送っていた。
「なぜ別行動をとる?」
ラギスが訊ねると、シェスラは不敵な笑みを浮かべ、山岳の
次第に道は険しくなり、時に巨岩をよじ登った。休息を挟んでは歩き、やがて
出発から四日目。
見事な黄昏だった。
見晴らしの良い広地で荷を下ろし、一行は休息をとることにした。
草原を渡っていく風に吹かれながら、地平線の
「こうしてみると、かなり巨大だな」
三百年ほど前にネロアの領主が作らせた、対セルト用の防壁である。
「大陸を横断する気らしい。無駄な浪費だったな」
壮大な光景になんら感銘を受けることもなく、シェスラは一刀両断した。
「無駄ってことはないだろう。堅牢な防壁だ」
「侵略から身を護る為に城壁は有効な手段だが、あそこに建てても無意味だ。あんなものに浪費するくらいなら、海岸に
「海岸?」
「他の族長にもいえることだが、北方の防衛体制を疎かにし過ぎだ。このままでは、いずれ海から攻められる」
「アレッツィアか?」
ラギスの言葉にシェスラはちらりと視線をよこし、再び正面をじっと見据えた。
「アルトニアだ。水霊族は小都市に匹敵する規模の土地に、貯木場、造船所、加工所、倉庫を整え、一度に三十隻以上の軍船を建造、修理できる能力を持っている」
「そりゃ、すげぇな」
「それだけの海軍力を
「うーむ……俺は海を見たことがないが、とんでもなく広いんだよな?」
シェスラは虚を突かれた顔になり、ラギスをまじまじと見つめた。
「そなたは海を知らぬのか」
「話を聞いたことはあるが、見たことはない。一度この目で見てみたいがな」
「うむ。いずれ私の船に乗せてやろう。絶景を拝めるぞ。見渡す限りの海、遥かなる水平線は大地の形を教えてくれる」
「へぇ」
「ともかく、海から攻められたら玄関都市は一貫の終わりだ。ドナロ大陸は河口が多い。開港した途端に、内陸の港まで武装した商船に乗りこまれるだろう」
ラギスはちょっと想像してみて、ふと湧いた疑問を口にしてみた。
「そうか? アルトニアと貿易が盛んになるのは、悪くない気もするけどな」
「対等であればな。治外法権と関税自主権を奪われた上での開港となれば、目も当てられない。資源を搾取され、開拓され、敵軍が派遣され、百年向こうまで国を乗っ取られる」
シェスラの淡々とした説明に、ラギスは喉を鳴らした。
「……俺は海を見たことがないから、よく判んねぇけどよ。ドナロ大陸は絶壁に護られた自然の要塞だって、誰かがいっていたぞ」
「確かにそうだ。二千年もの間、海岸の絶壁は侵略から護ってくれた。だが、海軍事情が変わってきている」
「帝国はそこまで脅威なのか」
「そうだ。恐ろしいことに、今いった通りのゆく末を描けている族長は、私をおいて他に数人しかいない」
相変わらずの尊大な発言に、ラギスは白けた顔になる。シェスラはかぶりを振った。
「嘆いているんだ。現状を捉えられる
「嫌味にしか聞こえないぜ」
「事実だ。聖地奪還戦争にさっさと片をつけて、一刻も早く北の侵略に
その言葉は予言のような響きがあった。冷光をたたえて告げるシェスラの横顔に、ラギスは背筋が凍るような心地を味わった。
「だが、あんたも結局のところは聖地が欲しいんだろ?」
「信仰の為ではない。あの枯れた土地自体には、何の価値もない」
「よくいうぜ」
「あの場所は、部族統一を
「あんたを含め?」
「そうだ。土地自体には価値がなくとも、手に入れれば、全ての部族を掌握することができるからな」
「全てね……あんたは、本気で大陸制覇できると思っているのか?」
「無論。大陸制覇は通過点にすぎない。これからの時代、海を制するものが勝者になる」
「海か」
「そうだ。この国は遊牧民族として栄えてきた。勇壮な陸軍を
「そんなに開きがあるのか?」
「致命的だ。我等が内陸の帆船技術にとどまっている間に、帝国は自動汽船にまで到達している。今のままでは、海上では先ず勝てない」
「できるかどうかは別として、正直、その野心はすごいと思うよ。誰もが聖地争いに夢中なのに、あんたは水平線の彼方まで目を光らせているんだからよ」
ラギスはなにげなく口にしたが、シェスラは珍しく、ちょっと驚いた顔をした。
「なんだよ?」
怪訝な顔で訊ねるラギスを見て、シェスラは軽く首を傾げた。
「いや……私は今、褒められたのか?」
「は」
「ふ、そなたが私の言動に感心するとは珍しいな」
シェスラはくだけた雰囲気になり、笑みをこぼした。白銀の髪が肩からすべり落ち、薄紫や金色の色彩豊かな黄昏の光を弾く。
「別に、他人のおべっかなんて、聞き飽きてるだろ」
比類のない美しさに見惚れたことを誤魔化すように、ラギスはわざとぶっきらぼうにいった。
「そなたの言葉となれば別だ。それに、今のは本心からでた言葉であろう?」
「別に、褒めちゃいねーよ」
「ふふ」
シェスラはくすぐったそうに笑った。ラギスは面映ゆい心地を味わいながら、暮れゆく黄昏を見つめた。