月狼聖杯記
5章:閃く紋章旗 - 5 -
大衆浴場の件から数日後。
剣術稽古を終えたラギスは、ジリアンを探していた。普段なら傍に控えているはずなのに、姿が見当たらないのだ。
日暮れが迫り、召使が大廊下の壁にかけられた燭台に火を灯している。
仄明りの奥に、少年の陰影を見つけてラギスは近づいていった。目につきにくい石柱の合間で、壁を背に数人の騎士に囲まれているようだ。
「――報酬はいくらだ?」
「契約を結べば、俺達にも仕えてくれるのか?」
複数の男達の声が聞こえる。どうやら、また絡まれているらしい。
ラギスは声をかけようと一歩を踏みだし、思い留まって柱の陰に隠れた。以前に同じことをして少年の矜持 を傷つけたことを思いだしたのだ。
「私はラギス様の従者です。どなたのお召しにも応じるつもりはございません」
臆することなく、はっきりとジリアンは答えた。
「専属契約なのか?」
「そう解釈してくださって結構です」
「私の求めにも応じてくれないか? あんな粗野な男より厚遇してやるぞ」
「私はラギス様を心から尊敬しております。あの方にお仕えすること以上の幸運はありません」
「素晴らしい敬愛精神だが、盲目すぎては自由と楽しみの機会を失うことになるぞ」
男は身を屈め、愛撫するようにジリアンの肩を叩いた。よく見れば知っている顔だ。鍛錬場で一緒になると、わざわざ嫌味をいうために声をかけてくる騎士の一人だ。
「いいえ、最上の選択であると確信しております。私の心を、貴方に推し量ることはできないのです」
肩に置かれた手を弾くと、ジリアンは凛とした口調で続けた。
「どうかもう、私に構わないでください。ラギス様以外の誰にもお仕えするつもりはございません」
彼は、年上の男を相手に冷静に対処しているようだが、傲慢な騎士達に腕を掴まれ、壁に背中を押しつけられた。見かねたラギスは、軍靴 を鳴らしてその場に分け入った。
「おい! 文句なら俺にいえ!」
騎士は慌てた風もなく、斜 に構えていた姿勢を起こすと、ラギスに挑発的な視線を送った。
「これはこれは、聖杯殿?」
丁寧だが、嘲弄 の滲んだ口調で男はいった。
ジリアンの繊細な美貌は怒りに歪んだ。細い唇を噛みしめ、反射的な動きで剣の柄に手で触れた。ラギスは男の肩を掴んでひっぺはがし、ジリアンを背に庇った。
「こいつに構うのはやめろ。俺専属の従卒なんだよ」
「その美しい少年を、閨 にも侍らせているのですか?」
「お前らと一緒にするな、下衆が」
ラギスは吐き捨てるようにいった。
「粗野な男だ。王の番 にはとても見えませんね」
それに関しては全く異論がないので、ラギスは肩をすくめてみせた。
「王の聖杯は、さぞ魅力的な存在なのだろうと思っていましたが……貴方を見ていると、認識を改めざるをえませんね」
「勝手にしろ。いくぞ、ジリアン」
ラギスが背を向けると、慌てたようにジリアンが駆けてきた。去ろうとする二人の背中に、騎士達は嘲笑を飛ばした。
「教えてくれませんか? その姿で、どうやって我が大王 を誑 かしたのか」
「……それは、俺にいっているのか?」
ラギスはぎろりと男を睨んだ。並みの男なら腰を抜かすところだが、そいつは肩をすくめ、挑発するように笑みを浮かべた。
「他に誰が?」
「口に気をつけろ、俺は気が長い方じゃないんだ。今すぐ詫びをいれるなら、忘れてやってもいい」
「嫌だといったら?」
「剣を抜け。相手になってやる」
ラギスが剣を抜くと、傍で見ていた騎士は焦った顔になったが、対峙する騎士は笑みを深めた。
「知らないのですか? 先に抜いた方が罰せられるのですよ」
「なら、お前をぶちのめさないと損するな」
「正気ですか?」
「冗談だと思うか?」
「いいえ、閣下」
男は慇懃 な礼で応えた。敬意ではなく愚弄をこめて。躰を起こすと同時に鞘から剣を抜き、気取った仕草で剣尖 をラギスに向けた。
「ラギス様」
ジリアンは不安そうに名を呼んだが、ラギスは視線を男に定めたままだ。
「忠告してやったのに、突っかかってくる方が悪い。売られた喧嘩は買う主義なんだ」
そういうと、問答無用で刃を振り下ろした。
「はは! 本当に剣を抜くとは!」
男は喜色を浮かべて、剣尖を弾いた。喧嘩を吹っかけてくるだけあり、男の剣筋は悪くなかった。
だが、お行儀の良い剣技は、簡単に次の攻撃を予測できた。ラギスにいわせれば、貴族出の世間知らずが調子に乗っている感じだ。適当に剣をあわせながら、すぐに退屈を覚えた。この程度の腕では、闘技場のそこそこの剣闘士に、あっけなく殺されるだろう。
「剣が重たいのでは?」
男が笑う。嘆かわしいことに、実力差に全く気づいていないようだ。互角、否、優勢だと思っているらしい。
「評判の剣闘士と聞いて、ずっと、御手合せ願いたいと思っていたが、この程度のものか!」
それはラギスの台詞だ。軽く本気をこめて、剣を弾くと、よろけた男の鳩尾 に回し蹴りを打ちこんだ。
「――がっ!?」
このような不意打ちなど、経験したこともないのだろう。面白いほど綺麗に決まった。
仰向けに横臥 し、苦しむ男の腹の上に、ラギスは馬乗りに乗りあげた。首に手をかけ、指に力をこめる。
「お喋りはどうした?」
首の締まる苦しさと屈辱から、男の頬が忽 ち紅潮する。
脅しはこれくらいで十分だろう――ラギスが手を離した瞬間、額から汗の滴が落ちた。男の頬にはじけて、雫となって滑りおちる。
刹那、男の瞳孔が縦長になり、金茶の線が幾筋も放射状に延びた。
「――ッ!?」
瞬発的な腕力に押し負けて、ラギスの巨体は押しのけられ、宙に浮きあがった。
次の瞬間には、ラギスを背に庇うようにしてルシアンとアレクセイが目の前に立っていた。
「騎士がみだりに獣化を兆 すものではありませんよ」
アレクセイは穏やかな調子で、しかし脅すようにいった。ルシアンは一言も発しないが、周囲を威圧する覇気を散らしている。
ラギスはしっかり受け身をとっていたが、二人の行動が意外すぎて、即時に立ちあがることを忘れていた。
吹き飛ばした張本人は、熱の籠った目でラギスを睨みつけている。
「こんな、信じられない……これが……」
獣化の兆 しを抑えながら、ぶつぶつと呟いている。剣尖はラギスに向けているが、さっきまであった殺気は霧散していた。
「……ふん。闘う気がない奴と、剣をあわせる気はない」
ラギスは立ちあがると、茫然と立ち尽くす男を一瞥し、剣を鞘にしまった。
「どちらが先に抜いたのですか?」
アレクセイの問いに、俺だ、ラギスは正直に答えた。アレクセイは少し困ったような顔をした。
「稽古以外での騎士同士の抜刀は、禁じられているのですよ」
「あいつに訊けよ。喧嘩をふっかけてきたのは向こうだぜ」
ラギスが男に向かって顎をしゃくってみせると、アレクセイも男を見つめた。
「彼はどうして、獣化を兆しているのですか?」
「俺の汗が、あいつの額に垂れた途端……わざとやったわけじゃないぞ」
「判っています。彼には話を聞く必要がありそうですね」
アレクセイは納得したように頷くと、部下を見た。
「彼を独房に連れていきなさい」
「「はっ」」
命じられた騎士達は、素早く男の左右から腕を掴んだ。男は引きずられていく間も、茫然とラギスを見つめていた。
その様子を見届けてから、アレクセイはラギスに視線を戻した。
「ラギス様も、部屋にお戻りください。我が大王 に知らせて参ります」
ラギスは露骨に顔をしかめた。
「あいつにいうのかよ」
「はい」
「いわなくていいだろ……放っておけよ。俺は部屋に戻るから」
「ラギス様に関することは、どんな些細なことでも報告するよう命じられております。どうか、お部屋をでないでくださいね」
品の良い笑みで、だが有無をいわせぬ口調でアレクセイはいった。
ラギスは舌打ちをすると、ぶつぶつと文句をいいながら踵を返した。慌てたようにジリアンがついてくる。
二人とも憂鬱な煩悶 を抱えながら、黙々と歩いた。主従そろって浮かない表情をしている。ラギスの方は、シェスラの反応を思うと気が重くて仕方なかった。
「……申し訳ありません、ラギス様」
銀色の睫毛を儚げに震わせ、悄然とした様子でジリアンは謝罪した。ラギスは項垂れる少年をちらりと見下ろし、なめらかな銀糸の髪を無造作に撫でた。
「気にするな、向こうが悪い」
ジリアンは瞼をあげて、ラギスの瞳を覗きこんだ。
「いいえ、私がもっと早くラギス様の元に参じていれば良かったのです。探す面倒をおかけした上に、この身を庇い剣をとらせてしまいました」
「あいつは、前から気に食わないと思っていたんだ。叩きのめす、ちょうどいい口実が欲しかったのさ」
にやっと笑うラギスを、ジリアンは眩しいものを見るような、憧憬の眼差しで見つめた。一遍の曇りもない、清い畏敬の表情を浮かべている。ラギスが細い背中をばしっと叩くと、ジリアンは面くらい、赤くなった。嬉しそうな、照れたような様子で視線を伏せた。
少年のおかげで、ラギスの方も少しばかり心が軽くなった。諦めの境地で腹をくくり、城の最深部へ戻っていった。
剣術稽古を終えたラギスは、ジリアンを探していた。普段なら傍に控えているはずなのに、姿が見当たらないのだ。
日暮れが迫り、召使が大廊下の壁にかけられた燭台に火を灯している。
仄明りの奥に、少年の陰影を見つけてラギスは近づいていった。目につきにくい石柱の合間で、壁を背に数人の騎士に囲まれているようだ。
「――報酬はいくらだ?」
「契約を結べば、俺達にも仕えてくれるのか?」
複数の男達の声が聞こえる。どうやら、また絡まれているらしい。
ラギスは声をかけようと一歩を踏みだし、思い留まって柱の陰に隠れた。以前に同じことをして少年の
「私はラギス様の従者です。どなたのお召しにも応じるつもりはございません」
臆することなく、はっきりとジリアンは答えた。
「専属契約なのか?」
「そう解釈してくださって結構です」
「私の求めにも応じてくれないか? あんな粗野な男より厚遇してやるぞ」
「私はラギス様を心から尊敬しております。あの方にお仕えすること以上の幸運はありません」
「素晴らしい敬愛精神だが、盲目すぎては自由と楽しみの機会を失うことになるぞ」
男は身を屈め、愛撫するようにジリアンの肩を叩いた。よく見れば知っている顔だ。鍛錬場で一緒になると、わざわざ嫌味をいうために声をかけてくる騎士の一人だ。
「いいえ、最上の選択であると確信しております。私の心を、貴方に推し量ることはできないのです」
肩に置かれた手を弾くと、ジリアンは凛とした口調で続けた。
「どうかもう、私に構わないでください。ラギス様以外の誰にもお仕えするつもりはございません」
彼は、年上の男を相手に冷静に対処しているようだが、傲慢な騎士達に腕を掴まれ、壁に背中を押しつけられた。見かねたラギスは、
「おい! 文句なら俺にいえ!」
騎士は慌てた風もなく、
「これはこれは、聖杯殿?」
丁寧だが、
ジリアンの繊細な美貌は怒りに歪んだ。細い唇を噛みしめ、反射的な動きで剣の柄に手で触れた。ラギスは男の肩を掴んでひっぺはがし、ジリアンを背に庇った。
「こいつに構うのはやめろ。俺専属の従卒なんだよ」
「その美しい少年を、
「お前らと一緒にするな、下衆が」
ラギスは吐き捨てるようにいった。
「粗野な男だ。王の
それに関しては全く異論がないので、ラギスは肩をすくめてみせた。
「王の聖杯は、さぞ魅力的な存在なのだろうと思っていましたが……貴方を見ていると、認識を改めざるをえませんね」
「勝手にしろ。いくぞ、ジリアン」
ラギスが背を向けると、慌てたようにジリアンが駆けてきた。去ろうとする二人の背中に、騎士達は嘲笑を飛ばした。
「教えてくれませんか? その姿で、どうやって我が
「……それは、俺にいっているのか?」
ラギスはぎろりと男を睨んだ。並みの男なら腰を抜かすところだが、そいつは肩をすくめ、挑発するように笑みを浮かべた。
「他に誰が?」
「口に気をつけろ、俺は気が長い方じゃないんだ。今すぐ詫びをいれるなら、忘れてやってもいい」
「嫌だといったら?」
「剣を抜け。相手になってやる」
ラギスが剣を抜くと、傍で見ていた騎士は焦った顔になったが、対峙する騎士は笑みを深めた。
「知らないのですか? 先に抜いた方が罰せられるのですよ」
「なら、お前をぶちのめさないと損するな」
「正気ですか?」
「冗談だと思うか?」
「いいえ、閣下」
男は
「ラギス様」
ジリアンは不安そうに名を呼んだが、ラギスは視線を男に定めたままだ。
「忠告してやったのに、突っかかってくる方が悪い。売られた喧嘩は買う主義なんだ」
そういうと、問答無用で刃を振り下ろした。
「はは! 本当に剣を抜くとは!」
男は喜色を浮かべて、剣尖を弾いた。喧嘩を吹っかけてくるだけあり、男の剣筋は悪くなかった。
だが、お行儀の良い剣技は、簡単に次の攻撃を予測できた。ラギスにいわせれば、貴族出の世間知らずが調子に乗っている感じだ。適当に剣をあわせながら、すぐに退屈を覚えた。この程度の腕では、闘技場のそこそこの剣闘士に、あっけなく殺されるだろう。
「剣が重たいのでは?」
男が笑う。嘆かわしいことに、実力差に全く気づいていないようだ。互角、否、優勢だと思っているらしい。
「評判の剣闘士と聞いて、ずっと、御手合せ願いたいと思っていたが、この程度のものか!」
それはラギスの台詞だ。軽く本気をこめて、剣を弾くと、よろけた男の
「――がっ!?」
このような不意打ちなど、経験したこともないのだろう。面白いほど綺麗に決まった。
仰向けに
「お喋りはどうした?」
首の締まる苦しさと屈辱から、男の頬が
脅しはこれくらいで十分だろう――ラギスが手を離した瞬間、額から汗の滴が落ちた。男の頬にはじけて、雫となって滑りおちる。
刹那、男の瞳孔が縦長になり、金茶の線が幾筋も放射状に延びた。
「――ッ!?」
瞬発的な腕力に押し負けて、ラギスの巨体は押しのけられ、宙に浮きあがった。
次の瞬間には、ラギスを背に庇うようにしてルシアンとアレクセイが目の前に立っていた。
「騎士がみだりに獣化を
アレクセイは穏やかな調子で、しかし脅すようにいった。ルシアンは一言も発しないが、周囲を威圧する覇気を散らしている。
ラギスはしっかり受け身をとっていたが、二人の行動が意外すぎて、即時に立ちあがることを忘れていた。
吹き飛ばした張本人は、熱の籠った目でラギスを睨みつけている。
「こんな、信じられない……これが……」
獣化の
「……ふん。闘う気がない奴と、剣をあわせる気はない」
ラギスは立ちあがると、茫然と立ち尽くす男を一瞥し、剣を鞘にしまった。
「どちらが先に抜いたのですか?」
アレクセイの問いに、俺だ、ラギスは正直に答えた。アレクセイは少し困ったような顔をした。
「稽古以外での騎士同士の抜刀は、禁じられているのですよ」
「あいつに訊けよ。喧嘩をふっかけてきたのは向こうだぜ」
ラギスが男に向かって顎をしゃくってみせると、アレクセイも男を見つめた。
「彼はどうして、獣化を兆しているのですか?」
「俺の汗が、あいつの額に垂れた途端……わざとやったわけじゃないぞ」
「判っています。彼には話を聞く必要がありそうですね」
アレクセイは納得したように頷くと、部下を見た。
「彼を独房に連れていきなさい」
「「はっ」」
命じられた騎士達は、素早く男の左右から腕を掴んだ。男は引きずられていく間も、茫然とラギスを見つめていた。
その様子を見届けてから、アレクセイはラギスに視線を戻した。
「ラギス様も、部屋にお戻りください。我が
ラギスは露骨に顔をしかめた。
「あいつにいうのかよ」
「はい」
「いわなくていいだろ……放っておけよ。俺は部屋に戻るから」
「ラギス様に関することは、どんな些細なことでも報告するよう命じられております。どうか、お部屋をでないでくださいね」
品の良い笑みで、だが有無をいわせぬ口調でアレクセイはいった。
ラギスは舌打ちをすると、ぶつぶつと文句をいいながら踵を返した。慌てたようにジリアンがついてくる。
二人とも憂鬱な
「……申し訳ありません、ラギス様」
銀色の睫毛を儚げに震わせ、悄然とした様子でジリアンは謝罪した。ラギスは項垂れる少年をちらりと見下ろし、なめらかな銀糸の髪を無造作に撫でた。
「気にするな、向こうが悪い」
ジリアンは瞼をあげて、ラギスの瞳を覗きこんだ。
「いいえ、私がもっと早くラギス様の元に参じていれば良かったのです。探す面倒をおかけした上に、この身を庇い剣をとらせてしまいました」
「あいつは、前から気に食わないと思っていたんだ。叩きのめす、ちょうどいい口実が欲しかったのさ」
にやっと笑うラギスを、ジリアンは眩しいものを見るような、憧憬の眼差しで見つめた。一遍の曇りもない、清い畏敬の表情を浮かべている。ラギスが細い背中をばしっと叩くと、ジリアンは面くらい、赤くなった。嬉しそうな、照れたような様子で視線を伏せた。
少年のおかげで、ラギスの方も少しばかり心が軽くなった。諦めの境地で腹をくくり、城の最深部へ戻っていった。