月狼聖杯記

12章:ラピニシア - 10 -

 星暦五〇三年十三月十日。晴天。
 セルト国の石畳みに、蹄の音が高らかに響いた。
 騎士にとって最高の栄誉とされる凱旋式は、素晴らしい見ものだった。
 先触れに続いて、旗手が行進する。先導する騎馬隊は戦闘喇叭らっぱの美しい音色を響かせ、闊歩する鼓笛隊は太鼓の朗々たる明快な調べを奏する。
 迎える国民は、前々から王の帰還のために準備を整えていた。
 要塞都市は、瑞々しい初春の匂いと共に、目にも彩な草花で溢れ返り、屋根や窓からは高価な絹布や綴織つづれおりが垂らされた。
 ドナロ大陸を統べる若き月狼の王アルファング、シェスラは、冬の澄んだ陽を浴びてまばゆく煌めく金冠を戴き、いちだんど華麗な姿で現れた。
 絹の鞍敷と真鍮でよろわれた白馬に騎乗し、凱旋将軍として、不沈城グラン・ディオの外城門をくぐり抜けた。
 その神々しさに、群衆は随喜ずいきの涙を流し、自ずと膝を屈して、恭しくこうべを垂れた。
 軍楽ぐんがくの旋律が響くなか、最深部の内門に馬車が近づくと、角笛が響き跳ね橋がおりてきた。
 久しぶりにする不沈城グラン・ディオの威容に、ラギスはしばし圧倒された。セルトの財力権力を象徴するこの城に勝る要塞を、他に知らない。
 没せずを意味するこの城郭こそ、シェスラの麾下揺籃きかようらんの地であり、活動の本拠地である。
 錚々そうそうたる貴顕きけんたちが、それぞれの身分と領国を表す旌旗せいきをたなびかせ、着飾った従者をしたがえて入城する。その数は、数千とも知れない。
 前代未聞の大陸平定を成し遂げた王は、セルト領はもちろん、大陸中の尊敬を得たのである。
 華々しい論功行賞では、奮闘した将兵らが、威儀いぎをととのえ、扈従こじゅうをしたがえて伺候しこうし、金銀財宝、領土を賜った。
 ラギスとロキは、戦場での功績をよみされて司令官の称号を賜り、セルト兵にとって最も権威のある勲章の一つが贈られた。
 祝いの式は続く。
 論功行賞のあとに大王は、古式ゆかしく華燭かしょくてんを催した。
 白い礼服に身を包み、シェスラとラギスは伝統にのっとって、神殿の階段で婚儀の誓いを交わした。
 そして集まった人々のために、気迫に満ちた、月狼の闘いの儀式を披露した。
 シェスラはいったとおり、騎士団に覚えさせたのだ。渋々だったラギスも、振りつけにヤクソンの独特の節回しを取り入れたりと、シェスラの配慮にまんざらでもなさそうな顔で練習につきあっていた。
 剣舞のような華々しさはなく、荒々しい、戦いの舞踏だが、観衆の反響は凄まじかった。
 闘いの律動は月狼の共感を呼ぶ。
 強力な絆が月狼の王アルファングと群れの仲間達の間で交わされるのだ。
 耳をろうする歓声が響き渡る。正式に聖杯として受け入れられた証拠だ。
 実力重視の月狼は、縁組に身分を持ちださぬことが多いが、月狼の王ともなると、騒ぐ者もいた。聖杯といえど元は奴隷剣闘士、貴賤きせん結婚も甚だしい――眉をしかめる貴顕きけんもいたが、相手にされなかった。
 文句を口にする大半の者は、聖地奪還を俯瞰ふかんした者で、霊峰登攀の苦を分かち、戦場をくぐり抜けた月狼は一人残らず二人の縁組を心から祝福した。
 君主をかすがいとして、ドナロ大陸が一つに結ばれる先触れとして、好意的に受け入れたのである。
「皆がそなたを受けいれた。王である私の聖杯として、そなたを敬い、忠誠を尽くすだろう」
 シェスラはラギスの手をとると、恭しく持ちあげて、指先に唇を押しあてた。
「おい……」
 顔に戸惑いを浮かべたラギスだが、内心では、同胞に受け入れられたことが嬉しかった。
 四騎士も恭しく頭を垂れて、シェスラとラギスの前に跪いた。
「臣民を代表して、祝福を申しあげます。皆が我が大王きみと聖杯であるラギス様を歓迎しておりますよ」
 顔をあげたアレクセイは、優しい笑みを浮かべた。恭しくシェスラの手をとり、唇を落とす。ラギスの万力のような手にも、同じように唇で触れた。
「我が大王きみにお仕えできて、レイール女神に感謝いたします」
 ヴィシャスは相変わらず、崇敬の念をシェスラにしか向けないが、以前のように睨まれることはなかった。
 彼も同じように、シェスラの手を取り、口づける。そのあと、ラギスの手にも口づけた。
「おめでとうございます、我が大王きみ
 ラファエルがいい、ルシアンも片言で祝福を口にすると、同じように恭しく口づけた。
 恭順を示す彼等に、シェスラは美しい笑みで答えた。
 この大仰しい儀式は、月狼において由緒正しい、とても重要なものだ。
 王が聖杯を選んだ時、彼等はその者が王の隣に相応しいかを見極め、儀式の場で忠誠を誓うことで答える。
 どんなに力のある王でも、最強の騎士の忠誠なくして群れを率いていくことはできない。
 彼等の忠誠をえられなかった時、王は群れか聖杯かを天秤にかけねばならないことがある。
 だが、そんな悲劇は起こらなかったし、そのような可能性をシェスラも四騎士達も露ほども考えていなかった。
 自分はともかく、シェスラの指先に口づける騎士の姿に、ラギスは彼等の絆の強さ、たくまざる結束力を見た気がした。
 最後に二人は、花で飾りたてられた馬車に乗り、市街へと繰りだした。ラギスは渋々だったが、シェスラにいわれて道々、“月狼の黎明きたり”と刻んだ銀貨を、馬車の窓から群衆に投げ与え、熱狂的な歓呼を浴びたのだった。
 燭台に火が灯される時間になると、シェスラは四騎士とラギスを連れて大広間に向かった。従僕が恭しく扉を左右に開いて、執事が来訪を告げる。
 部屋の照明には何十本もの蜜蝋の蝋燭が使われており、温室栽培の薔薇をいけた花瓶が幾つも置かれているので、部屋は仄甘い香りが充満していた。薄く開いた窓から流れる涼風が、濃密な空気を中和している。
 広間には、見慣れた顔ぶれが集まっていた。
 ラギスの希望により、晩餐はごく親しい者で過ごせるよう、繁文縟礼はんぶんじょくれいから離れてくつろげるようにしておいたのである。
 彼等は酒肴のあふれた宴席につき、晩餐と歓談を楽しみ、笑顔を絶やさなかった。
 宴席には、ギュオーを始めとするネロアの一族、そしてラギスの母と妹、ホシウスもきていた。民族衣装で着飾った母たちを見て、ラギスも莞爾かんじとして笑う。どうしても尾が左右に強く振れてしまい、本人は露知らず、周囲の笑みを誘った。
 シェスラは暖かくラギスの家族をもてなし、彼の礼儀正しく思いやりに満ちた振る舞いに、ラギスも大いに満足した。
 この日、二人は正式に結ばれた。
 歴史に名を残す、偉大なる建国王とそのつがい、最強の聖杯の誕生である。




 数ヶ月後。
 もみの並木に陽が射しこみ、あぜ道を斑に照らすなか、シェスラとラギスは月狼の姿で走っていた。
 軽快な速足で進み、一本道になると疾駆で競う。
 甘い香りの漂う初夏の果樹園にさしかかると、速度を緩めて景観を楽しんだ。
 緑とだいだいに染まる杏の並木。
 記憶にある通り、枝もたわわに実をつけて、天に向かって呻吟しんぎんしている。小路にさわさわ梢が揺れて、木漏れ陽が踊っている。
 風に運ばれてくる甘い香りに、胸がいっぱいになった。
 愛しい故郷ふるさと、豊穣のヤクソン。
 ここへ戻ってくるのに、十八年かかった。
 月日を経た今、改めて自然の美しさと、慰藉いしゃとを感じる。
 隣にビョーグはいないけれど――隣をはしる白銀の月狼を見て、ラギスは瞳を細めた。
 今は、シェスラがいる。
 瓦礫は取り払われ、なだらかな平地に墓標が立てられていた。周囲には、菩提樹の苗木が植えられている。時が経てば、豊かな枝ぶりになるだろう。
 二人は目的地に辿り着くと、人形ひとがたに戻り、衣を整えてから歩きはじめた。
 ビョーグの墓石の前に片膝をつき、ラギスは手を伸ばした。墓石に刻まれた、ビョーグの文字を指でなぞる。
「ただいま、ビョーグ……」
(十八年ぶり……ようやく帰ってこれた。ヤクソンの森は、やっぱり美しいな)
 長い間、ここへ戻ってくる時は、復讐を遂げたあとだと思っていたが……この一年で大きく変わった。
 出会った時は増悪の対象だったが、シェスラと想いを交わし、つがい、彼の聖杯として、今は同じ未来を見つめている。
(恨んだこともあったけどよ、シェスラは、俺のつがいなんだ。傲慢だし、腹が立つこともあるけど……いい王だぜ。戦上手で頭もいい。聖地争いを本当に平定しちまった)
 いまラギスは、シェスラを愛していた。
 彼の全て、かつては憎んだ、欠点であり驕慢きょうまんと思えるものまでも、溺れるほど深く愛するようになった。
 はじめは当惑させられたものが、いまでは愛おしく感じる。つがいと認めてからは、彼の一種傲慢さも、逆に惹きつけられた。
 背中にシェスラの掌が押し当てられた。その暖かさを感じながら、心のなかで祈る。
(もう、誰にもこの土地を荒らさせはしねぇからさ……どうか、安らかでいてくれな)
 柔らかく頬を撫でる涼風に、ほとばしる生を祝福されているように感じられた。

 ――お帰り、ラギス!

 懐かしい、幻の声を耳に拾う。
 不思議な感覚だった。穢れた皮膚が一枚はぎとられ、無垢で清浄なものになったような感覚。
 長い歳月、胸の底にあった陰惨な記憶が、この時吹いたヤクソンの涼風に慰められたように感じた。
 黙祷もくとうを捧げたあと、ラギスはゆっくり立ちあがった。シェスラも同じように身を起こし、ラギスの手をそっと握った。
「この土地の藩主を、そなたとする」
 ラギスは驚いて、シェスラの顔を見つめた。
「このままの景観を保ちたければ、それでも良い。治水を引きたければ、技術者を派遣しよう」
「ここに?」
「うむ。そなたの好きに治めるといい。馬の育成地にしても良い」
「……シェスラ」
「うん?」
 見つめあったまま、ラギスはそっとシェスラの肩を引き寄せた。
「ありがとう。感謝する」
 するとシェスラは眩しげに目を細め、美しく柔らかな微笑を浮かべた。そっとラギスの背中に腕を回し、抱きしめ返した。
「礼をいうのは私の方だ。ヤクソンの森を、そなたと見てみたいとずっと思っていた……一つ、ねがいが叶った」
 情感の籠った声に、ラギスの心は熱くなる。
 シェスラはほほえんだまま、美しい指先をラギスに伸ばした。愛おしそうに頬を撫で、首筋を辿り、首の後ろを柔らかく引き寄せる。
 吐息が触れるほど顔が近づいて、そっと唇が重なった。
 劣情からくるものとは違う、触れるだけのキス。
 優しく唇を塞がれて、ラギスはこれまでにない心地良さを感じていた。
 離れていく瞬間、ちゅっと優しく下唇を食まれて、心が甘く震えた。
 仄かに上気した頬、とろりと潤んだ瞳を見て、ラギスの頬もじんわりと熱くなった。消え去った青春の盛りがあったとしたら、こんな風に、鼓動を轟かせたのだろうか。
 照れを誤魔化すように視線を落とすと、ゆらり、左右に振れている白銀の尾に気がついた。
(あの、シェスラが!)
 彼がそのように喜びを表に顕すのは、初めてのことだった。
 揺れる尾を認識した途端に、せきを切ったように、強い感情がラギスの胸のうちに押し寄せてきた。
「……ふ」
 微笑するラギスを仰いで、シェスラは不思議そうな顔をした。
「ラギス? どうし……ッ!?」
 きゅっとラギスが尾のつけ根を掴むと、シェスラは驚愕に目を瞠った。ついでにピンと張った白い耳を甘噛みすると、シェスラはおかしいほど狼狽えた。
「ははは……なんだよ、かわいいところもあるじゃねぇか」
「な、いきなり何をするッ」
 碧い瞳が、照れなのか、怒りなのか判別し難い光を宿してかがやいた。ともかく迫力があり、並みの将兵であれば跪いたろうが、ラギスは笑いを引っこめることはしなかった。
「そんなに怒るなよ、シェスラ」
 親しげに肩を引き寄せ、赤くなった頬にちゅっと唇を押し当てた。
「ッ!?」
 目を見開き、頬を押さえる姿を見て、ラギスは笑みを深くした。偉大で冷静沈着な月狼の王アルファングが、年相応の純情な若者に見える。シェスラの意外な面を垣間見て、久しぶりに年上の威厳を取り戻せた気がした。
(……ありがとうな、シェスラ)
 本人も無意識だが、ラギスは心からの暖かな眼差しをシェスラに向けていた。
 一方のシェスラも、戸惑いながらも、天にも昇る心地を味わっていた。これまで親しみの籠ったからかいというものを、周囲から殆ど受けたことがなかったが、ラギスの傍にいると驚かされることばかりだ。
 多幸感と精神感応に浸されながら、お互いの、とくとく波打つ鼓動を感じる。
 つがいの月狼は、満ち足りた気持ちで景観を眺め遣った。
 空気は暖かく、穏やかな風が顔に吹いている。
 さんと眩しい太陽は、これからの日々のきざしに違いない。