メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

9章:鯨の歌 - 2 -

 白波を煌めかせる夜。月の光は海に口づけをする。
 目的地であるブルーホールを間近にして、ヘルジャッジ号は、敵船の哨戒しょうかいの為、投錨とうびょうせずに島々の沖合を巡航していた。
 航行は安定しており、御しやすい風が海面を撫でている。
 心地よい風に吹かれながら、ティカはオリバーと共に檣楼トップで夜直に就いていた。
 遠くから、鯨の声が聞こえてくる。
 鯨の鳴き声はとても音楽的だ。
 彼等は歌うことが大好きで、精緻せいちに音を織り合わせて、言葉や物語を紡いでいる。
 波の音に合わせて、緩やかに声を上げる。高く短い顫音トリルを織りなして、素敵な合唱、海の音楽を聞かせてくれるのだ。

「鯨が歌ってる……」

 ぽつりとティカが呟くと、オリバーは三角の耳をピンと立てた。美しいものを愛でるように、眼を細めて微笑する。

「うん。楽しそうだね」

 彼等は編隊を組んで、華麗な跳躍ブリーチング遊びをしていた。高く跳んで、空中で巧みに身体を捻り、大きな波飛沫を立てている。
 白い腕、腹に優しく降り注ぐ月光を浴びて、立て続けに跳躍をきめる者もいる。
 尾びれが水面を叩く、力強い音。
 彼等にしかできない、はなれ技、飛び越しも披露してくれた。何キロにも渡って、白い航跡を引きながら、互いを飛び越し合ってゆく。宙に描く水飛沫の連なりは、水晶の首飾りのようだ。
 夜直を終えてオリバーと別れた後、ティカは船長室キャプテンズデッキに戻らず、船縁ふなべりから彼等の様子を眺めていた。
 そのうちに、群れは遠ざかり、一頭の大きな鯨がヘルジャッジ号の傍へやってきた。

“こんばんは。俺はアルルシオ……”

 驚いたことに、大きな鯨は声をかけてきた。深みのある、叡知を秘めた声だ。

「僕は、ティカ」

“ちぃせぇの。お前さんから、アトラスの加護を感じる。原始の海の力だ”

「それはきっと、無限幻海の古代神器を、僕が手に入れたから……」

 彼は尾びれを海面に叩きつけた。小さな雷鳴のような音が立つ。ティカは驚いて身を屈めたが、彼は穏やかな声で続けた。

“こいつは驚いた。原始の海の秘宝を手に入れたのか”

「仲間と離れてしまって、平気?」

 沖合に遠ざかる潮吹きを見て、ティカは気遣わしげに声をかけた。アルルシオは低い声で笑う。

“俺はこれから、長旅に出るんだ。仲間は見送ってくれただけ”

「どこまで行くの?」

“決まりはない。アトラスのかいなに抱かれ、遥かなる大洋を彷徨ううちに、答えを得られる……”

 彼等は、海の神秘の様々を知っている。
 礁湖ラグーンのゆりかごに育まれて、豊かなオキアミやニシンの漁場で群れをなすが、やがて群れを離れ、孤独な旅に出かけるという。
 森羅万象と己を知る、長い長い、魂の巡航にゆくのだ。
 アルルシオは噴気孔から一際高く飛沫を噴き上げた。狭霧さぎりが宙に舞い、星夜に虹の輪を作り出す。

「気持ち良さそうだね」

“背に乗せてやろう”

 その魅力的な提案に、ティカは眼を輝かせた。上半身裸になると、勢いよく船縁から飛び込む。

「ティカ!」

 甲板にいた兄弟が驚きの声を上げたが、ティカは鷹揚に手を上げて応えた。
 アルルシオの隣に並んで泳ぐ。彼の巨体に比べたら、ティカは赤子も同然だ。とにかく華奢で小さい。

「へへー」

 一緒に泳ぐのは、とても楽しい。ティカは呑気に手足で海水を掻いたが、彼は胸ビレでティカを傷つけぬよう、相当に注意を払っていた。
 銀班の海、ティカは彼の広い背中に乗せてもらい、海面を滑りながら、様々なことを話した。
 例えば、海洋の凄まじい闘いの話。彼は老戦士で、白と黒の巨体は古傷だらけだった。
 それは、巨大な軟体生物、深海イカとの戦いの跡であったり、アザラシの子供をシャチから救ったり、ふかから仲間を守ったり……闘い抜いてきた証だという。
 恐ろしい軟体の敵に打ち勝てるのは、気高い歯鯨達とされている。彼等は今も、深海で生と死を賭けた闘いを繰り広げているのだ。
 アルルシオは歯鯨ではないけれど、間違いなく勇敢だ。怖けず闘った証に、胸びれも背中にも吸盤や噛み痕、引っ掻き傷が無数にあり、ひげは何本か折れていた。

“ちぃせぇの。軟体の殺戮者に気をつけろ”

「イルカも教えてくれたよ。よほど危険なんだね」

“抱き込まれたら、身動きを封じられて、恐ろしいくちばしに食われるぞ”

「うん……」

 経験に裏打ちされた彼の忠告は、思わず怯んでしまう迫力があり、ティカは背筋を震わせた。